事故続く「富士山」冬は閉山するもう1つの理由 冬でも「登山できる雪山」はたくさんあるが…

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ここまでご紹介した通り、山頂登山道の開山期間は、その気象条件や安全管理上の観点から、合理的な時期に設定されています。ですが、仮に雪が少ない年で、整備が早く終わったとしても、開山が早まることはありません。では毎年7月1日が開山日として固定されてきたのはなぜか?それは、かつて富士山が信仰の対象の霊山として登られてきた歴史があるためです。

江戸時代に「富士登山」が一般化

現代の富士登山は、日本一の山に登った達成感や、山頂からのご来光を見るレジャーとして、多くの方に楽しまれています。しかしかつての人たちにとって富士登山は、単なる物見遊山の目的のみではなく、山岳信仰の登山として行われてきました。富士山の山岳信仰の歴史は、世界文化遺産に登録された理由のひとつであり、文化遺産の構成要素は、富士山信仰に関わるものが多数を占めています。

古くから噴火を繰り返した富士山。この噴火は浅間大神の怒りの表れと考えられ、人々はその怒りを鎮めるために、浅間大社を建立しました。このため富士山は古来、神の宿る神聖な山域と認識されていました。信仰のための富士登山は平安時代末期から行われ、末代上人(まつだいしょうにん)という修行僧が登頂したとされています。富士山は当時、修験者(山岳信仰により、山にこもって修行した僧)のみが立ち入ることのできる、聖域として認識されていました。

開山期間はその山を開放し、広く一般の信仰者を受け入れる期間として設定されました。富士山では明治以前の旧暦6月1日がその開山日であり、明治時代以降、現在の7月1日(山梨県側。静岡県側は例年7月10日)を開山日として設定しています。また、山頂には富士山本宮浅間大社奥宮が建立され、富士山の8合目より上の土地は静岡県・山梨県いずれにも属さず、この浅間神社が所有・管理する境内となっています。

富士山山頂浅間大社奥宮

富士山の信仰登山が庶民の間に広まるのは、江戸時代の半ば頃からで、人々は「富士講」と呼ばれる富士山信仰の登山をする結社を組織していました。これは江戸とその近縁の町単位で組織されており、「江戸八百八町に八百八講」といわれるほど、当時は多くの講が存在していました。講とは、「団体」のことであり、富士講は富士山信仰を志す町内の人が集まったグループということです。

富士登山には多額の費用と時間がかかるため、富士講では富士登山にかかる費用を皆で積み立てし、毎年代表者を富士登山へと送り出すという仕組みをとっていました。富士山信仰では、登頂した個人のみの幸福ではなく、万民の幸福を追求するという教えであったということですね。

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