日欧がしのぎ削った高速鉄道開発の「取材秘話」 ドイツICEの試作車に同乗、技術者との交流も
筆者は公式試運転の同乗取材を申し込んだものの断られ、同行のTBSボン支局の取材クルーも同乗を拒否された。だが、この取材クルーのドイツ人女性の通訳が西ドイツ国鉄(DB)の広報と再度掛け合い、その場で同乗取材OKの許可が出たのだ。
「どうして許可が出たの?」と聞くと、広報に対して「アンタ(広報)たちね、あの日本人クルーを乗せないと日本で何を書かれるかわかんないわよ」とタメ口交じりで交渉したようだ。新幹線とのライバル関係もあってか、こうして同乗が許可された。
夕闇迫るビーレフェルトを発車したICE試作車はぐんぐん速度を上げ、やがてドイツの鉄道で初となる時速315kmに到達し、車内では祝いのシャンパンが振る舞われた。その席で筆者にコンタクトしてきたDBの技師がいた。ICE開発技師のペーター・L氏だった。
彼の名刺の裏には日本語のカタカナで名前が書かれていた。聞くと、東海道新幹線の視察のために10日後に東京に行くというのだ。公式に新幹線の視察を申請したが断られたといい、来日後は筆者も陰のサポーターとして1カ月にわたって彼をヘルプした。彼は安ホテルに泊まり、東京―新大阪間を100系新幹線で何度も往復したという。
1人だけ許可されたICE3同乗
そして数年後、1991年6月2日のICE開業式の日、私はペーター氏の招待でカッセルでの式典に参加し、ヴァイツゼッカー大統領(当時)の目の前というポジションで取材することができた。
後日、ペーター氏とその上司へインタビューすると、「実は東海道新幹線にはジェラシーを感じていたんだ、それだけに100系新幹線には学ぶことが多かった」といい、トンネル内でも通話可能な電話システム、食堂車の供食方法、外観デザインのシンプルさなどがICE量産車に生かされたという。なるほど、ドイツの車内販売のコーヒーはそれまでインスタントだったのが、ICEではドリップで陶器のカップで提供された。コーヒーポットも100系と同じ日本製のメーカーのものだった。
そして1999年9月15日、当時最新の高速列車ICE3の初試運転の日に、スタッフ以外では筆者1人だけ同乗ルポが許可され、高速新線を初日に時速334kmで走行したのだった。DBのスタッフはこう言った。「ミナミ、キミがICE3に乗る初めての日本人だよ。ペーターから聞いているよ、キミがICEの開発に貢献したひとりだと……」。ICEの開発時から取材を続けてきた筆者にとって、これは嬉しい言葉だった。
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