コロナを「ウイルスとの戦争」と見る事への違和感 私たちがとれる選択肢はウイルスと生きること

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藤原:「戦争」のメタファーは非常に強力で、「勝ち」というものに対して少しでも足を引っ張るような人たちを排除するということが起こります。それと同時に、勝つためならある程度人権を制限したり、いろいろな犠牲が払われたりすることは仕方ない、という空気も広がっていきます。

例えば、アジア太平洋戦争末期の日本では、少しでも日本について批判する作家や学者が排斥されたり、書いた文章の中で「秩序を乱す」などと検閲で指摘された箇所が「×××××」と伏せ字にされたりしました。

また、集会など人々が集まって話し合ったり意見を交換したりする場がことごとくなくなるなど、表現の自由が制限されていったというのは、非常に大きなことだったと思います。

「非国民」という言葉が一般的となり、日本に批判的な発言をすることで牢獄に送られた人々も大勢いたわけですけれども、そうした偏った言論空間では、逆に危機に対応することができなくなってしまうということは、歴史が証明しています。

ウイルスは生態系のパートナー

福岡:コロナ・パンデミックでも、「生命を守る」という錦の御旗の下に、ニューヨークをはじめ、多くの場所で移動や集会の自粛が求められ、休校によって子どもたちが教育を受ける権利が制限されました。

私が今非常に危惧しているのは、新型コロナウイルスというピュシス(自然)の動きを封じるために、AIによる監視やデータサイエンスによって、私たちの行動履歴を可視化し、接触点をデータ化して感染爆発を抑えようという動きが進められていくことです。

そうやってロゴス(論理)の力を強化するということは同時に、移動の自由や接触の自由、すなわち自由な生命体としての私たちのピュシスを奪うものでもあると思います。

ウイルスは人間や他の生物とともに長い時間をかけて進化してきた、ある種の生態系のパートナーです。時には害を成すこともありますが、多くの益も成しているのですから、あるウイルスをアルゴリズムやデータサイエンスといったロゴスの力によって完全に制圧したり、撲滅したり、消去したりすることは不可能です。

たとえ新型コロナウイルスがなくなったとしても、新しいウイルスはこれからも次々と出現してくるでしょう。そう考えれば、ウイルスに対して無益な闘いを挑むべきではない、ということが言えると思います。

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