横浜の市電、なぜ「独立採算」で保存できるのか かつての市内主要交通、車両計7両が保存館に
横浜に路面電車が最初に走ったのは1904年7月、横浜電気鉄道(以下、横浜電鉄)の手によって開業した神奈川―大江橋間の2.6kmだった。「神奈川」は1928年に廃止された東海道線の神奈川停車場前、「大江橋」は現在の桜木町駅前である。
その後、路線は順次延長され、1921年に横浜市が横浜電鉄を買収し、「横浜市電」が誕生。2021年は、横浜市営交通100周年の節目に当たる。
1972年3月の市電全廃後、滝頭(たきがしら)の車両修繕工場・車庫跡に横浜市電保存館(以下、保存館)が開設され、現在も電車6両と貨車1両を保存・展示している。今回は同保存館を取材し、横浜市電の歴史や車両の保存・展示がどのように行われているのかなどについて話を聞いた。
ビールも運んだ路面電車
我が国で電気鉄道が最初に開業したのは1895年の京都であり、名古屋(1898年)、川崎の大師電気鉄道(京急大師線の前身・1899年)と続き、横浜は全国で12番目だった。ほかの大都市に比べて横浜での電車開業が遅れたのは、複数グループの競願になったことや、人力車夫による猛烈な反対運動があったことによる。
開業後は本牧、八幡橋(現・磯子区中浜町)、弘明寺など、当時の郊外へと着々と路線を延ばしていった。この中で、とくに興味深いのが本牧線である。電車専用の麦田トンネル(現在は市道の第二山手隧道)を掘削する難工事を伴って開通した同線によって、「開発が遅れていた本牧方面には関内の豪商たちの住居や別荘が次々と建設」(『横浜市交通局八十年史』)されるなど、市電の路線延長は都市の拡大を牽引する役割を担った。
また、この時期の特筆すべき出来事として、貨車によるビール輸送がある。1870年、アメリカ人のウィリアム・コープランドが山手の天沼(現在の市立北方小学校敷地)にビール醸造所を設立し、これを前身として、1907年に麒麟麦酒(キリンビール)が創立された。このキリンビール山手工場は、後に関東大震災で倒壊して生麦に移転するが、それまでの間、貨車で元町河岸までビールを運び、船積み・出荷したという。
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