横浜の市電、なぜ「独立採算」で保存できるのか かつての市内主要交通、車両計7両が保存館に

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横浜電鉄は、路線および事業の拡張を進めた一方で、経営状態は苦しかった。沿線の土地の賃貸など不動産事業が振るわなかったのに加え、第一次世界大戦期を通じての諸物価の高騰から建設資材や電力料金が経営を圧迫したほか、米などの価格上昇で生活が苦しくなった従業員による待遇改善を求めるストライキが頻発したのである。

こうした事態を受け、「市民生活に重大な影響をもたらす電車事業は1私営会社に放任すべきではない」との電車市営論が高まり、横浜市が横浜電鉄を買収し、1921年4月より横浜市電としての運行が始まった。運営は横浜市電気局が担った。

関東大震災で壊滅、そして復興

公営化により事業が軌道に乗るかに見えた矢先の1923年9月1日、関東大震災が発生した。保有車両143両のうち85両が焼失または大破するなどしたが、わずか1カ月後には神奈川―馬車道間を復旧させている。震災前に本牧線の延長工事などが計画されており、その資材を復旧工事に転用できたのである。

1923年9月1日、関東大震災当日の様子。市電の後ろに見えるのは市役所。倒壊を免れたが16時ごろに炎が侵入し焼け落ちた(写真提供:横浜市史資料室)

その後、「帝都復興計画」の一環に組み込まれた横浜市の復興事業の中で、市電は既設路線の復旧のみならず、新たな都市計画路線の敷設も進められた。1927年の隣接町村との合併によって市域が大幅に拡大されたことから、新たな郊外に向けての市電延長が必要とされたのである。こうして杉田(1925年11月)、生麦(1928年6月)、六角橋(1928年12月)、保土ヶ谷駅前(1930年12月)方面などへと路線が延長され、震災復興工事がすべて終了した1930年時点の路線延長は46.4kmにまで伸び、横浜電鉄から引き継いだ20.4kmの倍以上の路線網を形成するに至った。

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