イトマン事件、30年前に起きた戦後最大事件の闇 魑魅魍魎が跋扈、いまだに残された未解明の謎
両書に加え、國重氏を取材した『堕ちたバンカー』(児玉博著)は、司法が手をつけなかった銀行内部の暗闘や大蔵省の対応、マスコミの関わりなどを明らかにした点で意義がある。銀行内部の様子が相当程度明らかになり、欠けたピースが一部埋まったからだ。
『住友銀行秘史』には、読売新聞の記者が許氏にインタビューした際の録音テープを住友銀行に渡していたとのくだりが出てくる。同じ事件を他社の記者がどのように取材していたかを知る機会は少ないので大変興味深く読んだが、大塚氏の行動ともども、取材とは何か、記者はどこまで対象にコミットすべきか、改めて考えさせられもした。
退任を拒否し、イトマン処理の前面に
この30年の間に多くの関係者が鬼籍に入った。住友銀行関係だけでも河村氏をはじめ、「天皇」の磯田氏、「ラストバンカー」と呼ばれた西川善文元頭取(当時常務)、「磯田氏の番頭」であった西貞三郎元副頭取。そして2021年1月には巽氏が亡くなった。
巽氏は磯田氏に取り立てられて頭取になった。イエスマンともみられていたが、1990年5月、磯田氏から迫られた退任を拒否してイトマン処理の前面に立った。ある住友銀行幹部は「あのとき、巽氏が腹をくくらなかったら銀行は山口組に乗っ取られていた」と話していたのを思い出す。
巽氏は取材した関係者のなかでも印象に残る1人だった。多くの経済人は社会部記者というだけで取材に応じないが、巽氏とは事件の最中だけでなく、一段落したあとも幾度か長く話をする機会に恵まれた。特攻隊の生き残りで、恬淡とした味わいのある人だった。
住友銀行は結局、イトマンへの直接の貸し出しだけではなく他社分も含め数千億円の不良債権を丸抱えする形で「戦後処理」をした。信用秩序の維持を名目にしていたが、実際には司法の裁きを受けない見返りに、磯田氏らトップの公私混同や行内の派閥争いによるトラブルを預金者の金で補填し、決着をつけたということだ。
私が事件に関わったのは磯田氏が辞意を表明した翌日の1990年10月8日、大阪のイトマン本社であった記者会見に出席して以降だ。つまり日経の大塚氏が國重氏とタッグを組んで特ダネを書き、取材から手を引いた後のことだ。捜査は始まっていなかったが、イトマンはすでに回復不能の死に体だったことが後にわかる。
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