「孤独死」を否定しない「生き方」を示した知識人 徒党を組むことを嫌った山崎正和氏の「死に方」

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現に、妻の苳子は、一緒に住んでいた介護付き有料老人ホームで最期を迎えた。

「朝の4時にたたき起こされて病室に行ったのですが、臨終に間に合わなかった。看護師さんが巡回したときには息が絶えていたそうです。家内がさよならって言ったのかどうか、誰も見ていません」

「私は自分が死ぬときにでも、枕元で、どうですか、ああですかと言われ続けるのはいやですよ」

という。

死ぬときくらい放っておいてという。孤独と死をひとくくりにするのは、センチメンタリズムだというのが、山崎氏の考えだ。

「孤独死の何がいけませんか。告白しますが5年ほど前、弟が70歳くらいで孤独死しました。マンションで死んでいると、警察からの連絡で知ったのです」

枕元には、おにぎりと飲み残しの缶ビールがあった。

「弟は内科医で、結婚していません。医学知識や病院などのつながりは十分にあったでしょう。弟が好きで選んだ一人暮らしに、私がどうこう言うことではない」

不幸だとか、かわいそうだとは思わない。「いったい、孤独死で何かいけないことはあるでしょうか」と山崎氏はいう。

生涯、群れることを嫌った

山崎氏は生涯、群れることを嫌った。自立した個人による、つかず離れずの関係性を最良のものとした。その山崎氏が「孤独は束縛や抑圧に抗して断固立つという、崇高な理想でもあります」として、「孤独死」を肯定したのは、うなずける。

山崎氏にいわせると、「孤独死」は、近代社会が獲得した成果だという。近代社会は自分の幸せを自分で追求する自己決定権を追求した。だとするならば、そこには死の自己決定も含まれる。「生」と同様、「死」もまた、ほかの誰にも譲り渡すことができない自分だけのものだからである。

もちろん、「孤独死」に異を唱える人がいてもいい。家族に見守られながら最期を迎えたいという気持ちを否定するわけではない。

しかし、日常的に誰かと一緒にいるよりも、1人のほうが快適だと感じる人がいるように、1人で死にたいという人がいてもいい。「孤独死」は恥だとか、家族が「孤独死」したことを隠したがる風潮はどうだろうか。もはや「生き方」の定番がないことが明らかなように、「死に方」にも定番はないといえないだろうか。

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