「アメリカは友人」という冷戦の亡霊が残る日本 アメリカ一辺倒は正しい外交戦略なのか

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戦後生じた冷戦構造によって、日本と旧・西ドイツは、アメリカの丁寧な保護を受けることができた。確かに1991年のソ連崩壊による冷戦の終焉まで、日本と西ドイツはアメリカの秘蔵っ子であった。何をやっても許されていたのだ。しかし、それももう30年以上も前のことだ。あれ以降アメリカは、日本や西ドイツに冷たくなった。しかし日本のほうは、いまだにこの時代の寵愛の夢から覚めず、アメリカ一辺倒の政策をとっているのだ。こうした日本の政治は、世界から見ればこの世のものと思えないものかもしれない。

確かに冷戦時代は、甘い蜜の時代でもあった。冷戦が続く限り、日本は、アメリカの庇護のもと政治や経済が安定するというメカニズムを獲得できた。本来は不安定である自民党が長期にわたって政権の座につけたのは、まさにこのメカニズムのおかげである。

冷戦下でもアメリカから離れようとした西ドイツ

このメカニズムによって、キャッチアップ経済は成功し、無能な政権党であろうと簡単に崩壊することはなかった。だからこそ、アメリカの寵愛を受けるという朝貢貿易が成立する。日米安保条約にかぎらず、生活スタイルや価値観すべてに至るまでアメリカ一辺倒となる。

それは西ドイツも同じであった。西ドイツも日本同様、議会制民主主義の国であり、絶対的多数派を占める政党などいない。たいてい連合政権である。しかし冷戦構造の中、アデナウアー首相のような保守政権の安定化が必要であった。巨大なアメリカの軍事基地を受け入れ、それによって経済的利益と政治的安定を引き出していた。

少なくとも経済成長を遂げるまでは、このようなメカニズムはうまくいく。しかし、アメリカの弟分でなくなり、ライバルになるにつれて、アメリカとの仲はうまくいかなくなる。西ドイツの場合、戦後アメリカだけでなく、英仏によっても占領されていた。英仏との関係は経済共同体として発展していき、アメリカに全面的に頼る必要もなくなってくる。

ヨーロッパがアメリカに対しものをいう中で、西ドイツもアメリカとの距離を置くようになる。それがブラント、シュミットの政権で、東西雪解けの時代であり、ヨーロッパ共同体(EC)に至る道であった。ドイツはヨーロッパの一員として、ヨーロッパ内での存在価値を高めていった。

1980年代に大きな変化が起こる。1982年シュミットの後首相になったヘルムート・コールはレーガン大統領の下へ出かけ、ソ連・東欧に対して断固とした政策をとることをちかい、デタントから冷戦時代へもどることを決意した。その締め付けの結果が、1989年のベルリンの壁の崩壊である。

1989年7月14日、フランスではフランス革命200年祭が催され、同時にパリ・サミットも開催された。そこでの宣言の内容は、フランス革命の価値観、すなわち人権と民主主義を共有することであった。ゴルバチョフのソ連は、この価値観に共鳴する東欧諸国を自らの陣営にとどめることができなくなった。東ドイツの崩壊と東欧の社会主義政権の崩壊というドミノ現象の始まりである。

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