「アメリカは友人」という冷戦の亡霊が残る日本 アメリカ一辺倒は正しい外交戦略なのか
西側と東側の対立は、これまで資本主義対社会主義という図式だったのだが、この宣言以降は、人権と民主主義を守る陣営とそうでない陣営の対立ということになる。こうして前者が勝利し、後者は敗退を余儀なくされる。
西ドイツ、そしてヨーロッパ諸国とアメリカは、共通の価値観の世界を創設することに成功する。そして西側はEUとアメリカを含む巨大な世界になり、東側は価値観を共有できないロシアとそれ以外の少数の国となる。前者が強力であったことから、地球は一つの世界市場へと発展する。西ドイツはドイツになり、東西分裂のないヨーロッパの中心国となった。
一方の日本は、1989年の世界の動きの外にいた。西ドイツがこうした長期的な戦略を展開できた理由のひとつに、首相の在位が長期にわたっていたこともあげられる。少なくともコールから今のメルケルまで、40年の間にたった3人の首相しかいない。日本はその間20人近くの首相がいるのだ。
経済体制の変革をできずにいる日本
すでに1970年代初めに、日本はこうした冷戦崩壊にいたる政治と経済の変化に遭遇していた。冷戦構造下では、東側に接する日本や西ドイツなどを助けるために、アメリカが製品を輸入するというメカニズムが許されていたが、冷戦の崩壊が迫るにつれてこうした保護経済は、批判の対象となり始めていた。
成長した経済には、成長した経済体系が必要である。アメリカ一辺倒の日本外交は、アジアに友人を持てない状況をつくりだし、経済成長が鈍り始める。
国内政治は、1960年代の復興の夢、高度成長の夢が忘れられず、それ以上の政策を打つこともできず、アメリカ依存体質を抜け出せていなかった。まさに日米安保条約は、もろ刃の剣であった。1970年の日米安保条約の永続化は、その意味で今の日本をつくりだした原因かもしれない。
西ドイツは、1960年代に少しずつアメリカから離れ、フランスやイギリスに接近した。1963年のフランスとの和解は西ドイツの大きな曲がり角であった。戦後の日本がアメリカ一国支配であり、西ドイツが英米仏の三国支配であったことは、大きな違いではあるが、要は日独の政治家の政治展望の差がもたらした結果であった。
日本にもアメリカ一辺倒ではなく、全方位外交への道もあったのだ。1970年代に田中角栄はその道をたどろうとしたが、阻止され、再び中曽根首相のようなアメリカよりの政治に戻っていった。その後はよりいっそう悪化している。
それにしても、今の日本の置かれた状況を見ると、大きなため息をつかざるをえない。わが国は、いまだに冷戦構造の亡霊につきまとわれ、アメリカ以外に頼れる相手がいないのだ。しかも、今回の菅首相の訪米で明らかになったように、友人だと思っているアメリカにも、相手にされない状況なのだ。
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