今回は、元祖トレンディ俳優としてブレイクし、現在も多方面で活躍中の石田純一さんのお話です。
都内の名門、青山高校に進学するも、間もなく学生運動にのみこまれ、数ヶ月間「自主授業」となってしまった高校時代。先生と生徒が共に「考える時間」を持つことになり、結果、本質を見極める術を学んだとのことです。
喧嘩もする活発な野球少年だった中学時代のこと、そして、英語と映画三昧の大学時代から渡米まで、まだまだ現在進行形で夢を追い続ける石田さんのお話です。
●突然の学校封鎖、自主授業へ
今でも忘れられない光景があります。高校一年の夏休みも終わり、新学期が始まろうというときです。一部の学生による全学バリケード封鎖が行われ、自主授業となったのです。1960年代から1970年代初頭といえば、安田講堂事件など、数々の大学で学園紛争が起きていましたが、高校では青山高校が初めてのことだったと記憶しています。
都立青山高校といえば、戸山か、青山かというくらい都内でも指折りの進学校でした。それに加えて、青山という立地もあり、そこそこおしゃれで自由な気風も合わせ持つ、とてもクールな学校でした。期待に胸膨らませ入学し、野球部に入部しました。それが突然のバリケード封鎖で学内は騒然とし、数ヶ月間は授業がすべて「自主授業」となったのです。文部省(現、文部科学省)による学習指導要領にのっとった授業に取って代わり、集会や討論、そして各科目では教師も含めた自発的な授業となりました。先生とも激論を交わし、なかには、「お前らにそんなことは言われたくはない!」と辞めてしまうような骨のある先生もいました。
僕は、これを大変貴重な経験だったと思っています。単にテストの点数を取るためだけの勉強ではなく、表面や結果だけにとらわれずに本質や背景をきっちり考え抜こうということを学んだからです。
確か、僕の同級生は東大にストレートで38名合格しています。後にも先にもこの数は最高だと聞きます。この方法で結果もきちんと出ているのです。
このとき、自主授業になったからといって、学校には来ないで早々に塾へ通っていたヤツもいました。でも、そういうヤツに限って案外第一志望に落ちたりしました。
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