42年ぶり復活「多摩湖駅」、複雑な西武線の歴史 同名や似た名の駅が複数誕生、ややこしい変遷

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一方、多摩湖鉄道の村山貯水池駅(仮)が開業するよりも15年前の1915年3月に、箱根ヶ崎―東村山―田無―吉祥寺間の鉄道免許を取得した村山軽便鉄道という鉄道があった。しかし、同鉄道は経営危機に陥り、1916年5月20日に免許を川越鉄道に譲渡した。

現在の村山貯水池、通称多摩湖。東京の水がめであるとともに、完成時は観光スポットとして多くの行楽客を集めたという(筆者撮影)

川越鉄道は、日本最初の郊外電車を運転したことで有名な甲武鉄道の子会社で、国分寺―東村山―川越(現・本川越)間を開業させていた。この区間は現在西武鉄道国分寺線と新宿線となっている。川越鉄道は国分寺駅から甲武鉄道に乗り入れも行っていた。同駅付近で西武国分寺線と中央線が並行しているのはその時代の名残で、西武多摩湖線のホームと国分寺線のホームが別の場所にあるのも、両線の前身が別会社だったためだ。

1906年10月1日に甲武鉄道が国有化されると、川越鉄道は都心への直通ルートを失った。さらに池袋と川越を直結する東上鉄道(現・東武東上線)と、池袋と所沢を直結している武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が相次いで開業したため、苦境に立たされた川越鉄道は都心直結のルートとして狭山軽便鉄道の免許を譲り受けたのだった。

しかし、第1次世界大戦による物価の高騰で建設に着手できないまま、川越鉄道は1920年6月1日に電力会社の武蔵水電に合併された。その後、1922年6月1日に同社は帝国電灯と合併。その際に鉄道部門が切り離され、武蔵鉄道→西武鉄道と改名した。同社は現在の西武鉄道新宿線・国分寺線の前身ではあるが、現在の西武鉄道と同一の会社ではない。ここでは(旧)西武鉄道として区別する。

村山貯水池「前」駅の誕生

(旧)西武鉄道は紆余曲折を経て1927年4月16日に村山線高田馬場―東村山間(現在の西武新宿線)を開業させ、念願の都心直結を実現した。一方、東村山―箱根ヶ崎間の通称箱根ヶ崎線は工事竣功の延期を重ねていた。

村山貯水池前駅があったといわれる場所は現在では完全に宅地化されている。駅跡の手前を横切る鉄橋は西武多摩湖線。鉄橋ができたのは村山線廃止後のことだ(筆者撮影)

しかし、村山貯水池が観光地として人気を博したことと、多摩湖鉄道が開業したことに対抗心を燃やした(旧)西武鉄道は1929年4月1日、ルートを村山貯水池の近くを通るように変更。そして、多摩湖鉄道に遅れること3カ月の1930年4月5日に東村山―村山貯水池前間を、村山線の延伸区間として開業させた。

多摩湖鉄道への対抗心は駅名に「前」を付けたことからも感じ取れる。実際、村山貯水池に一番近かったため、(旧)西武鉄道は観光客誘致に有利となった。なお、村山貯水池前駅は実は仮駅で、西へ200m延伸してさらに貯水池に近い場所に本駅を設置する計画だった。しかし、度重なる工事竣功延期申請に業を煮やした鉄道省が、1931年10月31日に村山貯水池前―箱根ヶ崎間の免許を取り消してしまった。

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