1920年代を描いた代表的な文学作品に、スコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』(1925年)がある。高級住宅街で、夜ごと豪華なパーティーを繰り広げる大富豪がいる。
そこには好況を謳歌する人たちが集まってくる。しかるに彼の正体は貧乏な元軍人であり、その思いは昔の恋人を取り戻したいという1点にある。富裕な時代に真実の愛を求めるギャツビーの純粋さは時代を超える。同作品はたびたび映画化され、ロバート・レッドフォード(1974年)やレオナルド・デカプリオ(2013年)の当たり役となっている。
ただし1920年代の政治家はまったくいただけない。前述のハーディング大統領は、汚職まみれで任期中によくわからない死に方をしており、歴代のアメリカ大統領ランキングでは最下位を争う常連である。後を継いだカルビン・クーリッジ大統領も、「無口なカル」と呼ばれる地味な存在であった。もっともその政権下において、アメリカは減税と財政再建の両方に成功するのだが。
思うに1920年代とは、争いごとが多かった20世紀の世界におけるつかのまの晴れ間のような時期である。日本は第一次世界大戦の戦勝国として、国際連盟では常任理事国となり、明治維新以来の緊張感が和らいでいる。国内的には大正デモクラシーの時代にあり、中産階級が勃興している。関東大震災や昭和金融恐慌に見舞われたりはするけれども、概して良い時代であったようだ。
「犠牲を払った世代」は冒険や挑戦を恐れない
故・岡崎久彦氏(元駐タイ大使などを歴任した名外交官)は、『故郷』(兎追いし かの山=大正3年)や『赤とんぼ』(夕焼け小焼けの 赤とんぼ=大正10年)など、今も歌われる唱歌や童謡の多くが大正期に作られたことを指摘して「平和ないい時代だったんだよ」と語ったものである。明治の武士の精神に対して「婦女子の心情を臆面もなく歌い上げたのが大正の精神なのだよ」とも。
ただし、その直前の日本にはやはりスペイン風邪の流行があり、当時の内地人口5600万人のうち実に45万人が亡くなっていた。その辺のことはスカッと忘れてしまって、100年後に別のパンデミックに直面して慌てふためいているわれわれがいる。
2020年代のアフター・コロナの世界は、明るい時代となるのではないだろうか。100年前と同じように、AI、ビッグデータ、フィンテックなど新しい技術のネタはたくさんある。高速大容量通信網や再生可能エネルギーといったインフラ需要もある。そして多くの犠牲を払った世代は、冒険や挑戦を恐れなくなる。
つらい我慢の時代の後は、かならずしも「平常への回帰」になるとは限らないのだということをお忘れなく(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)。
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