巨大駅・大阪はなぜ「湿地帯」梅田にできたのか 広すぎた用地が大ターミナルへの成長を支えた

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箕面有馬電気軌道の梅田駅構内は、1910年の開業時は約560平方メートルだったが、沿線の発展に伴い1914年には約1680平方メートルへと拡張され、複線ホームへと切り替わった。

梅田駅に隣接する梅田阪急ビルは、ステンドグラスなど装飾にも力が入っていた。改装によって現在は姿を消した(写真:時事)

同社は1918年に社名を「阪神急行電鉄」に改め、1920年には神戸線が開業。梅田駅は地平式4線ホームへと整備され、駅併設の梅田阪急ビルが竣工する。同ビル内には老舗百貨店の白木屋が店を構えたほか、上階に阪急食堂がオープン。阪急梅田ビルはターミナルデパートのビジネスモデルを築き、その後も梅田駅のにぎわいを牽引していく。

1926年、阪急の梅田駅は高架駅へと改築。同年には、阪神も出入橋駅―梅田駅間を複線化して仮開業状態を解消した。阪神の梅田進出は地下線による乗り入れが事前から進められていたが、紆余曲折あって地下ホームの完成は1930年にまでずれ込んだ。

その間、阪神は大阪市から割り当てられた約1800坪の駅前用地に阪神マートを出店する計画を進めていた。これはスケジュール的に間に合わず、駅ホームの地下移設とともに東阪神マート(現・阪神百貨店)を暫定開業している。

商都・大阪の「顔」として

1934年には大阪駅が拡張のため高架化され、合わせて阪急は高架駅を再度地上に移した。同時に大阪駅併設のステーションホテルも整備される予定だったが、工事が長期化し、不運にも日中戦争の開戦と時期が重なってしまう。結局、戦時の資材不足によりステーションホテルは幻に終わったものの、戦後も大阪駅と阪急・阪神の梅田駅は、競うように拡張・改築を繰り返してにぎわいを創出していった。こうして大阪駅・梅田駅は名実ともに商都・大阪の顔へと成長を遂げた。

傑出した私鉄経営者である小林一三の影響力もあり、大阪駅・梅田駅界隈のトピックスは阪急関連が目立ちやすい。しかし、隣接する大阪駅と梅田貨物駅、阪神の梅田駅がもたらした影響は無視できない。JR・阪急・阪神は、三者三様で梅田エリアの発展を競い合ってきた。

関西圏では、長らく国鉄よりも私鉄が強いといわれ、そうした背景が「私鉄王国 関西」という言葉を生んだ。国鉄がJRに変わってからも私鉄の力は強い。だが2006年、それまで梅田で火花を散らすライバル関係にあった阪神と阪急が経営統合し、従来のような開発競争は生まれにくくなったともいわれる。

しかし、梅田貨物駅跡地一帯の再開発は今まさに活発化している。

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