薄れゆく「日本人の心」は講談で学ぶとよい理由 現代社会に欠落したものが詰まっている

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あるいは、『天保水滸伝 笹川の花会』。これもいい話です。天保8年(1837年)は飢饉で困窮する人々が続出します。

資金作りとして企画された繁蔵の花会に、険悪の仲だった助五郎の名代で出席した政吉。周囲は皆50両の祝儀を出しているが、政吉が親分から預かった祝儀の金は5両。繁蔵はそれを花会の席で50両と披露し、敵対する子分の政吉に肩身の狭い思いはさせなかったわけです。

このように、現代社会から忘れられつつある、日本人の心、男の美学のようなものが、講談には残っているのです。

島国の日本は、水辺に集落を作り、集団で生活する農耕民族ですから、互いに助け合わないと生きていけない運命共同体が基盤にあります。しかし、アメリカなどはさまざまな価値観や異なる行動様式を持つ多くの人が集う、利益共同体です。

戦後になり、日本は急速に利益共同体へと傾きました。それはそれで、新しい「個の確立」につながり、個性を大事にできるメリットもあるのですが、個を大事にしすぎるあまり「自分さえよければ」といった方向へと進んでいるようにも感じます。

惻隠の情や、相手を慮る思いやり、人と人との絆といった、運命共同体的な要素を欠落させてしまったように思うのです。

慮りの最上級が「惻隠の情」

人間というのは共生動物ですから、どんな立派な人でも一人では生きてはいけません。人とのつながりを大事にする必要がありますし、相手を慮ることが欠かせません。その「慮り」の最上の形が「惻隠の情」なのです。

講談は人間が「美しく生きる」という姿勢が描かれていて、大事なことを思い出させてくれます。ですから数あるうちでも、私は男の美学が描かれたネタが好き。私自身、それを知っていて講談師になったわけではなく、講談をやっているうちに感化され、主人公のように生きたいと強く思うようになったわけです。それほど講談というのは、人を変える影響があるのだと思います。

それから、講談や落語の寄席では、客席の照明を落としませんから、お客の表情がよく見えます。私は昔、役者をしていたので、講談の世界に入ってからは、しばらく戸惑いました。芝居は客席の照明を落としますから、寄席のように遠くの席まで表情は見えません。

よく考えると、歌舞伎などの舞台では、役者が化粧をして、大道具や小道具で造られた別空間を共有しますが、寄席の場合は同じ明かりの下、同じ空間を共有します。寄席というのは、お客により近い存在なのです。これは、お座敷で講談をやっていたころの名残りでしょう。

現在の寄席でも、高座はお座敷を模倣した作りになっています。その代表的なものが、東京都・新宿にある寄席「新宿末廣亭」の高座です。

高座の下手には床の間があり、後方は杉戸になっていますし、額が飾られています。あれは、“部屋の中”を表したもの。寄席というのは、舞台ではなくお座敷の延長なんです。他の寄席でも杉戸に額は同じですが、床の間があるのは末廣亭だけです。

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