「何もない」大崎は鉄道を支えた工業の街だった 来年120周年、悲しそうな「自虐キャラ」で注目

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塗料・錆止めで傑出した技術を誇る日本ペイントは、その後も鉄道と密接な関わりが続いていく。1912年に開通した山陰本線の鎧駅―餘部駅間には、天空の橋とも形容される余部鉄橋が架けられた。同鉄橋は1915年から定期的に錆どめなど塗装のメンテナンスが必要になり、日本ペイントから専任社員が派遣されて日々の維持管理に努めていた。

日本ペイントの塗装・錆止め技術が使われていた余部鉄橋。2010年にコンクリート橋に掛け替えられた(筆者撮影)

さらに日本ペイントの名を高めたのが、1932年に発売した「ボデラック」だった。ボデラックは鉄道車両の外板用塗料として品質が認められることになり、南満洲鉄道の特急列車として歴史に名を刻んだ「あじあ」号にも使用された。こうした実績から、ボデラックは鉄道省から国鉄に改組した後も長らく使用され、国鉄から信用が厚いために私鉄でも広く使用された。

ちなみに、品川硝子製造所・品川白煉瓦・日本ペイントの3社は、現在なら京浜東北線の大井町駅のほうが近い。しかし、大井町駅が開業するのは1914年で、明治期に産声をあげた3社の操業開始後だった。

駅隣接地には明電舎

大崎駅を語るうえで欠かせない工場といえば、1915年に駅の隣接地に移転してきた明電舎が挙げられる。同社は総合電機メーカーとして国内外でも高い評価を得ているが、創業者の重宗芳水は鉄道部品のメーカーだった三吉電機工場で修行を積んでいる。

三吉電機工場は鉄道のほかにも多くの機械製造を手がけていたが、東京市街鉄道(現・東京都交通局)や京都電気鉄道(現・京都市交通局)などに部品を供給し、線路の電気施設の建設やメンテナンスなどに強みを発揮していた。独立した重宗は、修理などを請け負う工場を細々と経営していたが、変圧器や発電機の製造を機に工場を拡大していった。

明電舎は主に発電所関連の機械を製造していたが、1922年に開催された平和記念東京博覧会に出展した回転変流機が鉄道業界から大きな注目を浴びる。回転変流機は電気を交流から直流へと変換する装置で、同製品によって鉄道業界からも盛んに声がかかるようになる。

1927年に開業した高尾登山鉄道では、明電舎の電動機が採用された。高尾登山鉄道が運行するケーブルカーは、その運行区間が急勾配だったために建設も難工事だったが、車両や電動機も相当の性能が必要だった。明電舎の電動機は、それに応えられる性能だった。1932年には、秋葉原駅でエスカレーター用電動機が、日光登山鉄道で高圧捲線型誘導電動機が採用された。

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