「ホームレスを殺す若者」を25年追う女性の真意 実の父を追いつめた彼女が歩んできた道
「後々知った話ですが、実はその間、蒸発した父はホームレス状態だったと。住み込みの職を転々として岐阜で行き倒れになり、救急車で病院に運ばれたと聞いています」
北村さんが小学2年生のころ、母親がそんな状態の父親を見かねて引き請け、京都のアパートで3人暮らしが始まる。父は隣町の工場で働けるほどに回復、母は洋裁の内職を続け、家族3人手をつないで銭湯へ通った。
そんな生活が一変したのは、小学4年生のとき、市営団地への入居が決まったことがきっかけだった。風呂なしアパートから高層団地の11階3DKに格上げされた。
「夢のような団地に引っ越したんです。ところが父の通勤時間が往復3時間になってしまい、それでも頑張っていたのですが、やはり身体に負担がかかってしまったのか、腎臓を患って入院しました」
父は、かつて行き倒れて病院に搬送された当時の記憶がよみがえったのか、「病院は嫌だ、嫌だ」と言い出し、自宅に戻ってきてしまう。まだ幼かった北村さんには、父が病院嫌いになる理由がわからず「どうして病院に行かないの?」「どうして頑張れないの?」と責め立ててしまった。
すると父はポロポロと涙を流し、「すまんなあ。お父さんもう頑張れへんのや。病院行くぐらいなら、あそこから飛び降りて死んだほうがましや」と、ベランダを指さした。その姿に驚いた北村さんは「わかった。頑張れなくてもいいから。死ぬなんて2度と言わんといて」と父の手を取り、ともに涙を流した。
それからしばらくして父がまた、「死にたい」と漏らしたとき、北村さんは思わずこう口走ってしまった。
「そんなに死にたかったら死んだらええやん!」
その数週間後のこと。北村さんが学校で授業を受けている最中、父が亡くなったことを知らされる。
実は団地の11階から身を投げていたのだ。
父の死の手がかりを求めて
「まさか本気で言っているとは思っていなかった。死んだらええ、あのときのひと言が、何百回も何千回も反芻しては悔やまれて……。弱くても頑張れなくてもいい、生きていてくれるだけでよかったんやと思い知りました。それでも母を支えて頑張らないといけないと思い、母の前では絶対に涙を見せませんでした」
周囲の大人たちは「頑張れよ」、「しっかりな」と励ましの言葉をかけてくれたが、まだ小学6年生だった北村さんは、かえって息苦しさを感じたという。
「泣きたかったら泣いていいよと本当は言ってほしかったんでしょう。もう十分、頑張ってるよねって。その“ガンバリズム”が結局、父を追い詰め、私を泣けない子どもにしていった諸悪の根源です」
このときの原体験がその後、北村さんの運命を左右することになる。