吉祥寺に「有名漫画家が多く暮らす」納得の理由 「少女漫画の舞台」として最高の環境だった
1980年までの黄金期には、500回以上のライブ・コンサートやイベントを企画・開催し、訪れた客数は延べ50万人以上を数え、今日のニューミュージック界に大きな影響を与えたとされている。
「ぐゎらん堂」に集ったのは、ミュージシャンやそのファンたちだけではなかった。詩人、作家、画家、編集者、漫画家、写真家、映画作家、演劇人、舞踏家、落語家とその卵たちが、続々と結集したという。1985年に閉店したが、吉祥寺はそれ以降もライブハウスの集積する街になった。
「曼荼羅」が吉祥寺にできたのは、1974年のことだ。現在は「MANDALA GROUP」として発展していて、吉祥寺には「曼荼羅」を含めて4店舗を展開しており、吉祥寺の音楽文化に大きく寄与している。吉祥寺にはさらに、音楽スタジオ、カフェなども開業している。もともと1971年に浦和に開店したジャズ喫茶が母体だが、吉祥寺とともにという印象が強い。
ライブハウスをチェーン展開する事例は、東京でもいくつかあるが、特定の地域に集中していることは極めて少なく、吉祥寺での「MANDALA GROUP」のライブハウスの多店舗展開は、地域との密接な関わりの重要性を示してくれる。
漫画家たちが「吉祥寺への憧れ」を加速させる
さて、1970年代を代表する少女漫画家である田渕由美子が、1976年に描いた『フランス窓便り』は、乙女ちっく派(陸奥A子、太刀掛秀子など、少女趣味的な恋愛ロマンスを描いた漫画家たちの総称)の代表作といえるだろう。1996年の『フランス窓便り』復刻版において、評論家の大塚英志が解説で、次のように書いている。
つまり、田渕たちの漫画世界に憧れた少女たちは、やがて80年代に入ると、その夢物語を少しずつ現実化していくのである。漫画はそういった意味で、時代性を持っている。田渕由美子は漫画史の中で大きな評価は得ていないかもしれないが、たびたび復刻されていまだに根強い人気を保持しているのは、そのためであろう。
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