アスリート800人が語る「暴力指導」の衝撃実態 人権NGOが提起したスポーツ界の深刻な問題
暴力の事例は野球だけではない。さらに、過剰な食事の強要、水や食事の制限、罰トレーニング、罰としての短髪、上級生からの暴言、暴力、性虐待などの事例も数々紹介されている。こうした暴力を振るった指導者、つまり加害者は日本のスポーツ界・教育界ではほとんど責任を問われることがない。
もちろん、日本でもスポーツ庁を中心に「スポーツ基本法」「スポーツ界における暴力行為根絶宣言」などが発表され、暴力体質を改革する動きが起きている。しかし報告書では、これらの取り組みでは不十分であるとしている。
そもそも、スポーツをする人の法的権利とスポーツ団体の法的責任の規定が不十分で、スポーツをする子どもの虐待に対応する仕組みが不明確。被害者救済の仕組みも、指導者研修も不十分。要するに「スポーツにおける暴力はいけない」と一応否定はしているが、そのための取り組みはほとんど整備されず、現場のスポーツ指導者の良心に委ねられている、ということなのだ。
世界では「セーフスポーツ」というムーブメントが起こっている。国際オリンピック委員会もスポーツの現場からの暴力の排除に乗り出している。日本は過去3度のオリンピックを開催し、来年には4度目のオリンピックを開催しようとする、スポーツ先進国のはずである。その日本で、スポーツからの暴力の排除がまったく進んでいないのだ。
暴力と"地続き"の日本スポーツ
日本のメディアでは、スポーツに関する暴力・虐待事件のニュースがしばしば報じられてきた。そのときに常套句のように使われるのが「熱心さのあまり」「行きすぎた熱血指導」のような言葉だ。
筆者はこれにつねに違和感を覚えていた。これでは、スポーツ指導の延長線上に「暴力」が存在する、と言っているようなものだ。本来のスポーツは、暴力や虐待を否定するところから始まるのではないか。
これまで筆者は野球だけでなく、多くの高校スポーツの指導者に話を聞いてきた。指導者の多くは、筆者が尋ねる前に「暴力は振るっていない」と言う。そうした風評が広がるのを恐れているのだ。
一方で、そういう指導者が必ず言うのは「昔とは違って世間がうるさいから」「今の子は厳しく指導すると、親や学校に言いつけるから」という類いだ。高校野球の「名将」と呼ばれる指導者の中には「今の子は甘やかされているから、きつい指導をするとやめてしまう」と嘆いて見せる人もいた。
彼らの本音は「今の世の中では暴力が否定されているからやらないが、昔の指導は正しかった」ということになるのではないか。だとすれば、暴力が容認されれば、そうした指導者は再びこぶしを上げると考えられる。
ジャーナリストにしても、教育者にしても、「人権の尊重」と「暴力・暴力的指導の否定」は最も重要視すべきポイントだろう。だが、現状はこのレベルなのだ。
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