ヘルパーが描く「介護漫画」が共感されまくる訳 現場で働く漫画家の彼女が人生で得た悟り

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高学年になると、あからさまに学力が劣ってきて「将来はダメかもしれない」と思うこともあった。ただ、両親や先生からはとくに勉強をしろと叱責されることもなかったので、むしろひたすら漫画ばかり描いていた。

「漫画を描く、と言ってもオリジナルのストーリーは描きません。ひたすら模写を描いていました。小学校の頃は竹宮恵子さんや萩尾望都さん、中学校に入ってからは少年漫画の模写をしていました」

漫画の模写は高校まで続けていた。漫画家になりたいという思いはあったものの、卒業後は山形県内の製造業の会社に入社した。

「製造現場で機械を動かしたり、事務をしたりしていました。2年くらいは流されるままに働いていたんですが、仕事に飽きてしまいました。このままじゃダメだ、なんかやらなきゃ!! と思って、再び漫画を描き始めました」

吉田さんは20歳にして初めてオリジナルのストーリー漫画作品を描いた。はじめは知り合いと一緒に同人誌活動をしていたが、友人が漫画誌に応募すると言ったので吉田さんも

「私も応募してみようかな?」

と思い『別冊少女フレンド』の新人賞に応募した。残念ながら、連載につながるような大きな賞は取れなかった。

「それならば出版社に直接持ち込もうと思って『ボニータ』(秋田書店)に行きました。編集さんの反応はよくて、トントン拍子でデビューすることになりました」

吉田さんはそのとき、まだ20代前半だった。その当時描いている漫画は、オーソドックスな少女向けの漫画だった。

会社を辞めて漫画家専業に、離婚も経験

しばらくは山形会社の仕事と兼業していたのだが、漫画の仕事が忙しくなり、睡眠時間が取れなくなってきたことから漫画家専業でいくことに決めた。

この頃、結婚したのだがうまくいかず、すぐに離婚してしまった。離婚後は心機一転して、埼玉県に引っ越すことにした。

「まだ電子メールで原稿を送ったりできない時代です。山形だと原稿を郵送するのに時間がかかりました。関東なら宅配便を使って1日で原稿が届けられるからいいだろうと思いました。東京ではなく埼玉にしたのは、親族が埼玉に住んでいたのと、東京に比べて家賃が安かったからですね」

漫画家として本腰を入れようと思ったのだが、その頃バブル経済が崩壊し雑誌の廃刊が相次いだ。今まで仕事をしてきた雑誌でも、思うように仕事がもらえなくなった。

「慌てて、他雑誌に持ち込みました。4コマ漫画雑誌に運よく拾ってもらえました」

当時、4コマ漫画誌に勢いがあった。たくさんの雑誌が刊行されており、吉田さんも8つほど同時に連載することになった。

ピーク時には月産70枚以上と、かなりの量の作品を制作していた。

「アシスタントも雇っていましたけど、それでも時間が足りませんでした。買い物に行く時間すらなくて、山形に電話して実家から食料を宅配便で送ってもらっていました」

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