その不安を先の在宅医にぶつけると、自分も親を看取ったことがなくてわからない、と言葉尻を濁された。陽子は親を亡くした友人や僧侶に話を聞いて、自分の心を鎮めてくれる答えを探した。
彼女がホッとする言葉を教えてくれたのは、尼僧(にそう)だった。
「姿形(すがたかたち)があるときは心が苦しく、亡骸(なきがら)になれば悲しい。でも骨に戻れば心は軽くなる。だから大丈夫よ」
陽子は、連載9回目に登場した長坂幸子から、看取り士のことを伝え聞き、関連本を読んで、日本看取り士会に派遣を依頼した。
父と娘のかけがえのない日々
元看護師で、看取り士の西河美智子(56歳)は、2019年5月中旬に、陽子の父親がいる老人施設を初めて訪ねた。シベリア抑留から生還した過去も持つ父親は寡黙だが、とても威厳のある人だったという。
シベリア抑留とは、第2次大戦後に約60万人の日本兵が捕虜として、ソビエト連邦内の氷点下40度以下にもなる収容所で、過酷な労働を強いられたこと。約6万人が、飢えや病気で亡くなったともいわれる。
その父親が撮影し、地元新聞社主催のコンクールで入選した作品などが、施設の部屋には額装されて並べられていた。薄桃色の紫陽花の隙間から、アオガエルが顔をひょっこりのぞかせた瞬間を撮ったものなどが、西河の目に留まった。
「陽子さんがお父様に『何か食べる?』と尋ねると、1度目は憮然として『いらん』と言われる。それでも陽子さんが、『でも、これ食べるよね』と口にお菓子を運ぶと、お父様は黙って一口だけ食べられる。そんなご様子を垣間見ただけで、言葉は少なくても、互いに思い合う父娘の暮らしを感じました」(西河)
母親の他界後、東京で夫と暮らしていた陽子は、名古屋で一人暮らしを始めた父が心配になり始め、父娘で小旅行によく出かけるようになった。父親の趣味である写真撮影を通して、元気になってもらうのが目的。日帰りできる三重の伊勢や長野の木曽路、泊まりで京都に出かけた。弟も時折加わった。
そもそも、陽子を旅好きにしたのはドライブ好きの父親。1970年代、陽子が中学や高校で週末の部活を終えて帰宅すると、父親は名神高速を飛ばして、家族での京都日帰り旅を楽しんだ。
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