自粛ムードで気晴らしの機会を奪われた(我慢を強いられていると感じる)人々が、他者の挙動を逐一監視し、摘発や抗議、果ては公的機関に通報して「溜飲を下げる」構図は最もわかりやすいだろう。しかも、これらの言動は感染症特有の健康不安が後押ししている面がある。重症化する可能性が高い高齢者などであればなおさらかもしれない。
だが、その肝心の中身はといえば、深く考えずに多数派の意見を押し付ける「同調圧力」のようなものでしかない。先の教諭が語った「社会の目」とは「世間の目」のことである。
クレームをする側は必ずと言っていいほど、自分が「世間の代弁者」であるように振る舞う。そうなると、その人物の主観から見て「不快」なものはすべて「感染拡大を助長する行為」になりうる。つまり、自粛ムードが独り歩きすることによって、究極的には、さまざまな工夫によって政府や自治体が課す条件をクリアして、楽しい一時を過ごしている人々にですら「逸脱」のレッテルが貼られる可能性がある。
「ウイルス」ではなく「人に」いら立つ
こういった世間の目を気にする状況に置かれたり、無言のプレッシャーを感じたりする局面がある人は少なくないと思われる。今後さらなる感染拡大へと突き進むことになれば、自粛ムードをまとった「同調圧力」はより激しいものになることが想像できる。つまり、わたしたちは心の余裕がなくなればなくなるほど、「ウイルスに」ではなく「人に」いら立つようになるのだ。
このような物騒な事態が出来している主な理由は、わたしたちの社会がパンデミックという自然災害(生物災害に分類される)にあまりに無防備だったということが挙げられるが、そもそも長期間にわたって「人間の都合」よりも「自然の都合」に従わなければならない状況に馴れていないことも大きい。皮肉な話ではあるが、わたしたちの社会を成り立たせている根幹の機能がリスクにさらされているのだ。
「現代生活の根本問題の多くは、各人が自律性と個性を保ち、社会的圧力や歴史的伝統、外来文化、生活技術の巨大な圧力に押しつぶされたくないと思うことから生じている」と述べたのは社会学者のジョック・ヤングである(『排除型社会 後期近代における犯罪・雇用・差異』青木秀男ほか訳、洛北出版)。
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