東京駅と丸の内、「師弟」で築いた赤レンガの街 「首都の玄関」の景観はこうして生まれた

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1914年、中央駅は「東京駅」として華々しく開業を迎えた。当初は丸の内口しかなかったが、開業後も更新を繰り返しながら、今の姿に至っている。100年以上の歴史を有する東京駅は絶えず時代に合わせて進化を繰り返してきたのだ。

東京駅赤レンガ駅舎は戦災で屋根を消失。戦災復興では、暫定的に八角形の屋根で再建されたが、長らくそのままだった。2012年に丸型ドーム屋根に復元された(筆者撮影)

辰野は1919年に没した。昨年は没後100年という節目の年にあたるため、東京駅のステーションギャラリーや日本銀行本店に隣接する貨幣博物館などで辰野を顕彰する特別展が開催された。

東京駅を語るうえで、設計者である辰野を欠かすことはできない。そして、もう1人忘れてはならない人物がいる。それが、辰野の師匠でもあったジョサイア・コンドルだ。

東京駅の丸の内駅舎が日本の玄関口であり、日本を象徴する駅舎であることに異論を挟む人はいないだろう。しかし、長い歴史の中で丸の内駅舎が日本の玄関口、帝都・東京の象徴という地位を得ることができたのは、駅舎そのものの評価に加えて駅から広がる洗練された街区と美しい街並みがあったから、でもある。

赤レンガ駅舎がどんなに優れたデザインであっても、そこから広がる街が魅力に欠けていたら東京駅赤レンガ駅舎の魅力は色あせてしまう。駅舎単体の輝きでは、人々を魅了することはできないのだ。

コンドルが生んだオフィス街

東京駅赤レンガ駅舎と皇居に挟まれたエリア、いわゆる日本屈指のオフィス街が形成されている丸の内を伴ってこそ東京駅は帝都の象徴・日本の玄関口たりうる。その丸の内をモダンな街へと変貌させたのが、コンドルだった。

東京大学本郷キャンパス内に建立されているジョサイア・コンドルの立像(筆者撮影)

現在の丸の内には、三菱のグループ企業が軒を連ねている。そのさまから、丸の内一帯は「三菱村」とも形容される。戦前期に三大財閥に数えられた三菱は、戦後に進駐してきたGHQが財閥解体を指示したことで消滅。だがその後も、流れをくむ企業群は水面下で協力してきた。そして歳月とともに再結集し、財閥のような形態ではないものの、三菱グループの企業群は新たな形で結束力を固めている。

丸の内に陣取る三菱が東京駅前の一等地を手にしたのは、明治半ばになってからだ。三井・住友とともに三大財閥に数えられる三菱だが、歴史の面では三井・住友に遠く及ばない。江戸時代に勃興した両財閥に対して、三菱は明治期に台頭した新参組でしかない。

明治政府発足当初、歴史の浅い三菱は政府からの信頼が薄かった。創業者・岩崎弥太郎の力によって三菱は急成長し、その後も岩崎家総帥の力で国家と急接近して巨大化した。

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