「機動戦士ガンダム」から40年経て語られる真実 「アジア主義者としての安彦良和」の本質
ボースも右か左か、日本かアジアかという構図では割り切れない、「まれびと」のような人です。しかも華々しく成功はできずに、通常の歴史から忘れられてしまう。だから『中村屋のボース』を書きながら、自分の仕事はひどく孤独だ、とも感じていました。
その点で安彦さんのお仕事には勇気づけられました。杉田さんが今回の本で捉えようとしているのも、そうした善悪二元論とか、左右のイデオロギーとかでは割り切れないものでしょう。そこから人間の可能性や歴史観の硬直を突破しようとする。そこが安彦さんと響き合ったのではないか。
杉田:今回、安彦さんのご自宅に通って20時間ほど取材しましたが、最初は「マンガ家としての安彦良和」にテーマを絞るつもりでした。僕は安彦さんのマンガを愛読していましたが、すでに膨大な広がりをもつ「ガンダム」シリーズについての知識は十分ではありませんでした。もちろん『機動戦士ガンダム』(『ファーストガンダム』)については、小学生の頃、夕方の再放送で見てはいたのですが。
「ガンダム」論はたくさんありますが、安彦さんのマンガについて正面から論じたものはまだ少ないと感じていた。企画段階としては、安彦マンガ全体のブックガイド的な性格の本にするつもりでした。
けれども、安彦さんとお話ししているうちに、やっぱり安彦さんにとって『機動戦士ガンダム』に参加した、という協働経験の意味はとてつもなく大きく、決定的なものだった、という事実がわかってきた。そこから、アニメーター・監督としての安彦さんと、マンガ家としての安彦さんをつなぎ合わせて、トータルに論じるための視点が必要だと理解したんです。
中島:本のなかに、安彦さんが『虹色のトロツキー』の連載終了後に「あんた何が描きたかったの?」と聞かれて、「さあ何だったろう」と答えた、というエピソードがありますね(笑)。「それ、いいな」と思いました。
自分で何を書けたかわかってしまっている本はつまらない。そもそもアジア主義にしても、簡単に結論の出る話ではありません。結論を出した瞬間、アジア主義の魅力の一切は消えてしまう。結論の出ないものをひたすら拾おうとし続けてきたのが、安彦さんのお仕事なのでしょう。
なぜタイトルが『虹色のトロツキー』なのか
杉田:安彦作品で特に気に入っている作品はありますか。
中島:『虹色のトロツキー』はやっぱりいちばん好きですね。
杉田:確かに最もまとまりがないというか、次にどっちに行くか全然わからないような物語になっています。
中島:とにかくいろいろな意味でわからない作品です。タイトルがなぜ『虹色のトロツキー』なのか、ということすらぼやけていく。