戸田をはじめとした埼玉県南部の線路建設予定地の住民の間では、地域の分断、騒音、電波障害などを理由に、激烈とも言える反対運動が続く。その一方で、新幹線とともに開通する通勤新線を「戸田市の悲願」とする声も根強くあった。
結局、1979(昭和54)年には、共に反対していた浦和、与野市ともに戸田市もその建設を受け入れることに。以後、通勤新線の建設も一気に具体化していくこととなった。
埼京線が開通した1985年(1月1日時点)の戸田市の人口は7万6426人。そして現在は14万0143人(今年7月1日現在)と約2倍になっている。
『戸田市史』にも記されているが、戸田というと、埼京線開通以前は、「競艇と倉庫の街」というイメージだったという。荒川沿いの戸田公園には、1964(昭和39)年の東京オリンピックでボート競技の会場となった漕艇場があるのだが、その西側には競艇場があり、その西側には1954(昭和29)年に開場した競艇場がある。
倉庫の街というイメージもある
戸田の競艇、川口のオートレース、浦和の競馬、大宮の競輪と埼玉県南部には一大ギャンブルゾーンが広がっているが、そのなかでもとくに戸田の競艇は、その地域イメージを代表するものと受け取られているようだ。戸田ボートの本場売上(戸田の競艇場での、戸田レースの舟券の売上)は11年連続全国トップ(本場+電話投票+場外投票では全国8位)。その収益は、戸田市や川口市、蕨市などに分配され、小学校の校舎改修やインフラの整備などに用いられている。
一方の戸田市の象徴とされる「倉庫」だが、戸田が倉庫の街となったのはやはり東京と隣接する立地が大きな理由だ。戸田市内の倉庫は埼玉県戸田市にありながら、戸田倉庫ではなく東京倉庫と名乗っている例が多く、東京のバックヤードとしての役割を果たしている。
幹線道路である新大宮バイパスと東京外環自動車道沿いの美女木や笹目といった市の西部一帯には倉庫や工場が特に多い。『戸田市史』には、戸田市が埼京線開通時に駅舎のデザインにこだわったのは、「『倉庫と競艇の街』から『高級ベッドタウン』へとイメージの転換をはかりたいと考えていたからである」との記述もある。
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