死に至る病でさえ克服した「人類と薬」の世界史 たゆまぬ努力と好奇心が不可能を可能にした
18世紀では、当時、死に至る病として猛威をふるっていた天然痘(てんねんとう)について、イギリス人医学者エドワード・ジェンナーが1796年に行った人体実験が有名です。牛痘にかかった女性のウミを少年に接種し、その2カ月後に、今度は天然痘患者のウミをその少年に接種しました。現代の感覚ではとんでもない荒技です。
しかし、その結果少年は天然痘を発症せず、牛痘での免疫が成立したことを証明しました。天然痘患者のウミを健康な人に予防的に接種する人痘法は、古代から民間療法で行われていましたが、これは天然痘にかかる危険性が高い方法でした。この安全性の高い牛痘の成功から、ワクチンの開発が進み、世界保健機関(WHO)が1980年に天然痘の撲滅宣言を行うまでになります。
古来の民間療法を、近代的な薬として科学的手法を用いて定義し直す試みは、ほかにも18世紀後半からさらに進みました。イギリスの医学者ウィリアム・ウィザリングは、オオバコ科の植物キツネノテブクロの抽出物ジギタリスを心臓病の患者に用い、臨床試験の原型とも言える結果を1785年に出版しています。
スコットランド人医師ジェームズ・リンドも臨床試験の開拓者であり、長期の船旅で発症する壊血病が海軍で問題になっていたことに対し、患者を複数のグループに分け異なる食事療法の効果を比較し、ビタミンCを含むレモンジュースの処方が有効であることを1753年に突き止め発表しました。
1000円札にもなった北里柴三郎の功績
体液のバランスが崩れて病気になるという体液病理学が、アリストテレスの時代から古典的西洋医学の基本で、1000年以上続いていました。しかし、これを覆す細胞病理学という考え方が19世紀後半になってドイツのルドルフ・ウィルヒョウによって唱えられます。病気が細胞の異常によって引き起こされるという近代的な概念で、日本では明治維新の時代と重なります。ドイツには、近代細菌学を開いたロベルト・コッホもおり、その弟子として熊本県出身の北里柴三郎がベルリンへ留学します。
北里は、1890年に「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」と題した論文を発表し、第1回のノーベル生理学・医学賞の候補者に挙げられています(受賞は共同研究者のベーリング単独)。
同じころ、フランスの生化学者・細菌学者のルイ・パスツールが、9歳の少年で狂犬病のワクチンによる発症予防を成功させました。狂犬病ワクチン完成の成果はわずか4カ月後に論文発表され、世界中で名声を獲得し、現在まで続く名門パスツール研究所が1887年に設立される契機となりました。
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