29歳のパラ卓球選手が伝えたい「諦めないこと」 パラメッセンジャーになった金子和也選手

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「手術後に目が覚めたときは、足が切られてしまったんじゃないかと錯覚するぐらい足の感覚がありませんでした。怖くて怖くて、毎日泣いていたことを今でも覚えています。それからは、歩行をサポートする補装具と杖が日常生活には欠かせなくなりました。学校のみんなと同じように遊んだり、スポーツをすることができなくなってしまったんです」

それでも金子選手は、自身の障がいを言い訳に物事を投げ出すことはなかった。友達と一緒に学校に行く、遊ぶ、勉強することを目標に掲げ、諦めることなくリハビリを続けた。

その後、野球やサッカーといった走力が求められるスポーツは難しいが、「コートが狭い卓球であれば、足が悪くても工夫すればできるのではないか」と可能性を見いだし、中学校から卓球部に入部。腹筋や腕立て伏せなど“走る以外のトレーニング”に徹底的に取り組み、卓球の技術を高めていったことで、周りが健常者の中でもレギュラーを勝ち取ってみせた。

中学校の埼玉県大会でも優勝に貢献した金子選手は、顧問の教師から「障がいのある選手の卓球大会があるから出てみてはどうか」と勧められ、初めてパラ卓球の存在を知る。それを機に、高校から障がいのある選手の大会に出ることを決めた。2009年アジアユースパラゲームズに初出場すると、オープンシングルス、立位シングルス、団体で優勝し、3冠を獲得。その瞬間「パラ卓球でトップを目指そう」と選手としての目標を掲げた。

タクティブの卓球レッスンに参加し、バックハンドの練習に励む金子和也選手(左)(筆者撮影)

高校卒業後は、スポーツ自己推薦で早稲田大学スポーツ科学部に進学。のちに大島祐哉選手や松平健太選手(ともに木下グループ)らを輩出する名門卓球部で4年間、トップレベルの選手たちとともに技術を磨いた。

大学卒業後は、物流企業のサンリツに入社。会社員として働きながら、土日の休みを利用して練習し、国際大会には移動費や宿泊費はすべて自己負担で出場するなど、努力を続けパラリンピックを目指していた。

そんなとき、2018年4月から、選手活動を支援するTMI総合法律事務所に転職したことで、競技生活に集中して取り組めるようになったという。

「はじめはプロとして活動することができなかったので、正直、厳しかったです。でもこうして競技に打ち込める環境の中にいられるようになり、本当に幸せに思います」

現在は、卓球スクールを展開するTACTIVE(タクティブ)が開催するレッスンに参加し、週6日で練習を行っているという。以前と比べて卓球漬けの日々を送れるようになった。豊富な練習量に手応えをつかんでおり、充実した表情を浮かべていた。

リハーサルで直面した「人前で話す」ことへの課題

選手活動の合間には、2018年9月から取り組み始めたスピーチトレーニングに励んでいる。今年1月下旬には、2月の修了講演に向けたリハーサルを日本財団ビル内で行い、約2時間かけて全体的な流れを確認した。

だが、本番直前にして大きな課題に直面した。

この日までに約1時間におよぶ講演の構成をつくり、練習を重ねてきた金子選手だったが、緊張からかスピーチ中に何を伝えたいのかわからなくなり、何度か言葉に詰まってしまった。

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