そういう私は、一方で、相談者と同じ感受性を持っているし、他方では、悩む人が「わかる」感受性も持っている。よって、私は至る所に見られる怠惰で月並みな回答を「超えたもの」ではなく、今回の場合も、以上のように2分される月並みな回答の「中間」を行きたいのであり、しかも互いに微妙な違いがある膨大な数の「中間」のうちのひとつの特殊な場合を提示したいのです。
これこそが、パスカルの(「幾何学的精神」に対立するものとしての)「繊細な精神」の意味することだと思います。もう何千年、いや何万年も前から人類は基本的に相いれない価値観や人生観を持った他人たちの中で生きてきたのであって、類型化してしまえば、どんな相談を受けようとも、「それは『A』という大グループ内の『イ』という中グル―プ内の『132番目』の場合と同じだ」というふうに答えられてしまう。私は、極力こうした答え方をしないように努力してきたつもりです。とはいえ、個々の場合は無限に多様なのであって、もし「厳密にこの場合」にのみ回答しようとするなら、いっさい、ほかの人に参考にならなくなってしまう。
今回の相談を中島流に解読すると……??
というわけで、「個々の相談の固有性を生かしながら、それを適当に普遍化する」工夫が必要だというわけです。そこで、やっと今回のご相談の文面に眼を向けますと、「ああ、そうなんだなあ」と素直に肯定できる音色と、「どこか肩肘を張っているなあ」、あるいは「悩む者に対して挑戦的だなあ」という音色が互いに反響しあっているような不協和音を感じます。その不協和音を私なりに「解読」すると、次のように変形できるのではないか。
「世の中には何かと悩んでいる人が多いのですが、その底には、悩み苦しんでいる自分のほうが悩まない人より人間として『まとも』であり、『高級』であると思い込んでいる傲慢ささえ感じます。なぜ、人は『悩まない生き方』を認めようとしないのでしょうか?」
いや、これは表層であって、さらに「解読」すると、次の地層が見えてきます。
「これまで『人生相談』を読んできたのですが、いずれも自分の考え方をちょっと変えれば解決できるものばかりで、大げさに騒ぎ立てるその『弱さ』と『未成熟』と『わがまま』に憤りを覚えます」
これはニーチェ的な発想法であって、強者から見れば弱者は無限に「わがまま」に見えるのですよね。私はこれも否定しません。私にもこういう感受性があるからです、とにかく自分が「弱者」であることを喧伝すれば、すべての人が頭を垂れて従ってくれるのですから。
「皆、弱者の気持ちがわからなければならない。しかし、強者の気持ちはわからなくてよい」という現代日本の風潮がイヤでなりません。だから、皆、「弱者」になりたがるのです。なぜなら、そのほうがトクだからです――と、つい日頃の怒りに任せて書きつづりましたが、一般に次のような「悩みの法則」があるかもしれません。
(1)重い悩みを抱えている人は、軽い悩みを抱えている人を軽蔑する。
(2)具体的な悩みを抱えている人は、普遍的な悩み(たとえば人は死ぬこと)を抱えている人を軽蔑する。
(3)悩みを抱えている人でそれを外に出さない人は、外に出す人を軽蔑する。
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