東上線「朝霞」、地名の由来は「ゴルフの宮様」

往年の「大遊園地」計画、現在地は武蔵大学

それでも大仏建立の夢を捨て切れなかった根津は、1944年に国際親善で南米を訪問。その際には銅の調達を模索するほどだった。南米視察の翌年に根津は死没し、朝霞大遊園地計画も雲散霧消した。

同様に、朝霞ゴルフリンクスも戦争の影響を受けた。ゴルフリンクスは閉鎖に追い込まれ、同地には市ヶ谷台(現・防衛省市ヶ谷地区)から陸軍予科士官学校が移転する。

朝霞に設置された陸軍予科士官学校は、開設後に昭和天皇が行幸し、振武台と命名された。それほど大日本帝国にとって重要な軍事施設であり、帝都防衛の要でもあった。ちなみに、朝霞で学ぶ将校生は朝霞駅の使用を禁じられており、東上線を利用する際は新倉駅まで歩くことが暗黙の了解になっていた。

陸軍予科士官学校の移転と時を同じくして、同地には東京・赤羽から陸軍被服廠の一部が移転した。陸軍予科士官学校と陸軍被服分廠が集積したことで、朝霞は未来の日本を担う軍都としても期待が集まる。

陸軍被服分廠では、軍服・航空服・軍手・軍足・防毒マスクなどが生産された。生産品や工員を運ぶために、朝霞駅の南側から分岐して陸軍被服分廠へと至る側線も建設された。

戦後はアメリカ軍基地に

戦後、陸軍予科士官学校跡地と陸軍被服分廠、そして朝霞大遊園跡地一帯は軒並みアメリカ軍に接収された。同地は広大なアメリガ軍基地となり、キャンプ・ドレイクと通称される。

東上線沿線には帝国陸軍が使用した成増飛行場があり、こちらも接収地されてグラントハイツと呼ばれるアメリカ軍の住区に転換された。上板橋駅から分岐してグラントハイツ駅に至る路線は啓志線と呼ばれ、グラントハイツから都心部へと通勤する進駐軍兵士たちに利用された。他方、キャンプ・ドレイクに至る側線は、頻繁に使用されることはなかった。

基地跡地を市民に開放した「朝霞の森」は、広場として活用されているものの、あくまでも暫定利用にとどまる(筆者撮影)

太平洋戦争開戦から軍事色が濃くなった東上線は、戦後もそれは引き継がれた。朝霞駅南側のアメリカ軍基地は長らく返還されることがなかった。

返還の機運が高まるのは、1964年の東京五輪開催だった。選手村に活用する案が浮上したが、「五輪閉幕後は、元通りに基地へと再整備すること」というアメリカ側の条件と折り合わずに計画は頓挫。その後も、ベトナム戦争時に野戦病院として使用されるなど、これが国内の反戦感情を高ぶらせた。

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