東上線「朝霞」、地名の由来は「ゴルフの宮様」 往年の「大遊園地」計画、現在地は武蔵大学

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1932年の町制施行と同時に、膝折村は朝霞町へと改称。また、駅も朝霞駅に改称された。くしくも、ゴルフ場移転と町制施行のタイミングが重なり、膝折から朝霞への移行は一斉に実施される。

自治体名として膝折は消えたが、その痕跡は朝霞駅から徒歩10分ほどの場所にある字名に残り、現在でも周辺商店に「○○膝折店」といった形で使われている。

東武東上本線の車両(撮影:尾形文繁)

少しずつ観光名所が生まれていった東上線だったが、東武の総帥・根津嘉一郎はそれ以前より東上線の観光地化に着手していた。

朝霞にゴルフリンクスが誕生する前の1923年には、成増駅から徒歩10分ほどの場所に遊園地の兎月園をオープン。同地には、貿易商の花岡知爾が華族向けに経営していた高級農園「成増農園」があり、根津はその隣接地に休憩所となる飲食スペースを整備。さらに、園内で小動物を飼い、子どもたちが楽しめる空間を充実させた。

根津が取り組んだ東上線の観光地化は、朝霞ゴルフリンクスの隣接地でも取り組まれた。根津は隣接地を公園と遊園地が融合した行楽地として整備し、遠方からもたくさんの人が訪れる新名所にしようと考えていた。雑木林だった朝霞ゴルフリンクスの隣接地は、東武の資本力によって1933年ごろから開発が始まる。

「朝霞大遊園地」計画も浮上

一般的には根津公園と呼ばれた同地だったが、計画段階では “朝霞大遊園地”と呼ばれた。根津は“花月園”という名称を考えていたようで、その名称からも朝霞大遊園地は根津にとって兎月園につづく東上線の行楽地づくり第2弾だったことがうかがえる。

朝霞大遊園地計画は東上線の都市化や利用者増が期待できることから、成増駅―朝霞駅間に新しく新倉(現・和光市)駅を開設させる原動力にもなる。また、朝霞大遊園地は成増から朝霞に至る川越街道(国道254号線)の舗装工事を促すことにもつながった。

開園にむけて着々と準備が進められた朝霞大遊園地は、1935年に国内第3位の大きさを誇る大梵鐘が完成。これを吊り下げる鐘楼、大仏、庭園の工事も急ピッチで進められた。

そして、1937年には鎌倉・高徳院よりも大きな大仏の原型が完成。未開園ながら、この時点で早くも朝霞大遊園地は地元の名所となっており、建造中の大仏を一目見ようと多くの人が同地を訪れるようになった。

大仏完成は銅の鋳造を残すのみ。朝霞大遊園地は、開園まであと一歩のところまで迫っていた。

ところが、社会情勢がそれを阻む。半年後に日中戦争が開戦し、翌年には国家総動員法が成立。朝霞大遊園地の大梵鐘は、金属供出させられる。銅が入手できないことから大仏の鋳造もかなわなくなった。

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