東上線「朝霞」、地名の由来は「ゴルフの宮様」 往年の「大遊園地」計画、現在地は武蔵大学

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ベトナム戦争終結後、キャンプ・ドレイクの返還機運は高まり、昭和50年代から朝霞駅一帯のアメリカ軍基地は段階的に返還されていく。

1960年代後半から、東京の人口は爆発的に増加。その受け皿として、東上線沿線ではニュータウンや大規模団地の造成が活発化する。持ち家神話が蔓延する当時、サラリーマンが都内でマイホームを構えることは困難になりつつあった。そこで、地価の安い東上線がクローズアップされる。

東上線沿線には北坂戸団地が建設されて、最寄り駅として北坂戸駅が1973年に開業。その後も、1979年に若葉台団地の建設によって若葉駅、志木ニュータウンの最寄り駅として柳瀬川駅が開業する。

現在は閑静な住宅地に

一方、朝霞駅南側は広大な未返還地があり、それが開発を阻む。そうした事情を踏まえ、日本住宅公団は駅北側に東朝霞団地を竣工。東朝霞団地は朝霞駅の裏手にあたるため、駅へのアクセスはよくなく、住民の便を図るために翌年に朝霞駅北口が開設される。こうして朝霞駅は駅の北側から発展を遂げていった。

東上線の行楽地として開発が進められた朝霞は、いまやその面影は薄く、閑静な住宅地になっている。

国有地になった後も、駅周辺にはフェンスに囲まれたままの未使用エリアが残る(筆者撮影)

未返還地のあった駅南側も歳月とともに返還が進み、市内の返還はほぼ完了した。返還された地には、市庁舎や図書館といった公共施設が立ち並ぶ。朝霞大遊園地の計画地は、根津嘉一郎が創立した武蔵大学のグラウンドに姿を変えた。

ただ、返還されたとはいえ、いまだ朝霞駅一帯には国有地としてフェンスで囲まれている未使用エリアが残っている。また、市民に一般公開されている朝霞の森も、あくまでも基地跡地暫定利用広場として位置付けられており、今後の見通しは不透明だ。

東上線だけではなく、有楽町線や副都心線の相互運転も始まり朝霞駅は格段に便利になった。東京都心部から近いために、朝霞駅はベッドタウンとしての趣を強くしている。

基地の跡地整備という課題を抱える中、どのようなまちづくりを進めるのか。今後の動向に注目が集まる。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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