31歳、ゼロからやり直す「巨人ドラ1」の進む道 大阪桐蔭のエース・辻内崇伸と女子プロ野球
大阪桐蔭時代は3年の夏に甲子園にも出場。田中将大を擁する駒大苫小牧の前に延長で敗れたもののベスト4まで勝ち進んだ。当時の大会タイ記録となる1試合19奪三振、左腕最速の152㎞/hをマークするなど、この夏の主役となった金足農業(秋田)のエース・吉田輝星のように脚光を浴び、巨人に高校生ドラフト1位で入団した。今の吉田同様、将来の日本球界を背負って立つピッチャーとして嘱望された。
しかし、辻内がプロの1軍公式戦で投げることは1度もなかった。
「ジャイアンツに入ったときから左肘に不安があったんです。それでも投げられない状態ではないので投げていたのですが、2年目のキャンプで痛めてしまい、検査の結果は内側側副じん帯断裂。手術を余儀なくされました。あれが自分のプロ野球人生の分岐点だったのかなと思います」
辻内はその後も度重なるケガに悩まされ、8年間のプロ生活はつらいものとなった。それでも巨人に入団できて良かったと言い切る。
「たしかにつらい思いもたくさんしましたが、楽しかったこともいっぱいありましたし、プロ野球選手はそんなに多くの人がなれるわけではない。入っていなければ女子プロ野球で指導することもなかった。
ジャイアンツのドラフト1位というのも正直、重荷でしたし、今でもそう感じるときがあります。ただ、それと付き合っていかないといけないですし、自分の中では整理できたのかなとも思っています。女子プロ野球ではその肩書が役に立つこともありました」
辻内にとっての女子プロ野球での5年間
2013年オフに戦力外通告を受けて引退した辻内は、翌年から女子プロ野球界に新たな活躍の場を見出した。埼玉アストライアや東北レイアのコーチ、監督として、5年間女子プロ野球の発展に力を尽くしてきた。
「ずっと男社会で生きてきたので、3年目くらいまでなかなか慣れなかったのですが、それ以降は楽しくやらせてもらいました。もともと人を育てるということに興味があって、技術の向上もそうですし、選手としての成長に携われるような仕事をしたいと思っていたので、コーチのお話をいただけたのはありがたかったです。
ただ、自分はその器ではないと考えていたので監督をやりたいとは思っていませんでした。それまでに監督代行で何度か試合を指揮したこともありましたが、実際にやってみると全然、違った。自分の采配で落とした試合もある。責任の重さをひしひしと感じた。結果を残してあげられなければ、その選手の人生を左右することにもなる。そう考えると怖いなとも思いました」