内容は親子関係を描く、シリアスな作品が多かった。
下積み時代の作品制作は苦しいと感じる人も多いが、浅田さんは漫画を描く日々が楽しくて仕方がなかったという。投稿を続けていると、ある日、『週刊少年ジャンプ』の編集部から電話がかかってきた。
「『一度編集部に来なさい』って言われました。
顔を出すと、
『君はなんで毎回毎回送ってくるの?』
って言われたので
『私は漫画家になりたいんです!!』
と答えました。
『どうすれば漫画家になれますか?』
と編集者に尋ねると
『まずは賞を取ろうか? 1本描いてきて』
と言われたんです。
それで、若者の葛藤を描いた漫画を描きました。親とうまくいってないとか、恋人が別の男と結婚するとか、そういう漫画です」
編集者に見せると
「この作品じゃあ賞は取れないなあ」
と言われアドバイスを受けたのだが、なんとその漫画で賞を取ってしまった。
『週刊少年ジャンプ』で漫画家デビュー
ただし大賞ではなかった。それが悔しくて、もう一度チャレンジした。またもや大賞は逃し、ショックで子どものようにワンワン泣いた。編集者には
「もうデビューしよう。賞にこだわらなくてもデビューはできるから」
と言われた。
「いざデビューすることになって過去に自分が描いた作品を読み返しました。『少年』『農場』『バトル』をテーマにしている作品が多かったんです。それで闘牛士をテーマにした漫画を描くことにしました」
そして2000年、20歳の時、『週刊少年ジャンプ』で描き下ろし作品「闘牛士飛火」で漫画家デビューをした。
デビューしたことを家族に伝えると、母親は喜んでくれたが、父親は浅田さんに罵声を浴びせた。
「俺はすしの親方をやっている(偉い)人間なのに、子どもが漫画家なんて恥ずかしくて言えない。家族の名簿から消す」
浅田さんはデビュー後、『週刊少年ジャンプ』と専属契約を交わした。
年間50万円が支給され、編集者から徹底的な教育を受けることになる。
「作家が休んだときに備えたストック作品を描きました。頑張って描いても、ネーム(漫画の設計図)に全然OKが出ません。1つのネームを通すのに3カ月くらいかかりました」
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