地下鉄は核シェルター?鉄道都市伝説の真贋 国会議事堂前駅と都営大江戸線の「深い話」

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都営大江戸線は東京の地下鉄でも屈指の深い区間を走る路線でもある。40m以深の地下空間は通常の地下空間と区別されて大深度地下と呼ばれる。現在の東京では、大深度地下空間は鉄道や道路、下水施設などのインフラに活用されているが、大深度地下は地震などの災害から身を守るためにも有効と言われており、大江戸線が核シェルターに早変わりするという都市伝説は一部でかたくなに信じられている。

大江戸線の光が丘駅は自衛隊が有事の際に使用する駅として知られる。光が丘駅の近くには練馬駐屯地があり、陸上自衛隊は光が丘駅から地下鉄内を伝って都内各地へ移動するからだ。

大江戸線は東京都庁とつながっており、なおかつ牛込柳町駅から防衛省にもアクセスできる。これは石原慎太郎都政下で副都知事を務め、退任後は明治大学でも教鞭をとった青山やすし氏がテレビ番組や雑誌などでたびたび披歴している話だ。

光が丘公園はかつてアメリカ軍の住宅地だった

大江戸線核シェルター説を生んだ光が丘駅の来歴にも注目したい。大江戸線終端の光が丘駅は、光が丘公園・光ヶ丘団地の地下に開設されている。

光が丘公園は1981年に開園したが、それ以前はグラントハイツと呼ばれるアメリカ軍の住宅地だった。最盛期は約7万人のアメリカ軍関係者および家族が生活していたグラントハイツは、日本人が容易に立ち入れない“異国の地”でもあった。

光が丘公園のメインロードは、成増飛行場時代の滑走路跡。現在、この地に軍事的な面影は残っていない(筆者撮影)

当時、グラントハイツ住民の足を担ったのは東上線の上板橋駅から分岐していた東武啓志(ケーシー)線だった。ケーシー線は、上板橋駅―グラントハイツ駅間の約6.3kmの短い路線で、全線が単線非電化だった。東上線は1929年に全線が電化を完了していたので、ケーシー線ではわざわざガソリン車や機関車を借りて運行していた。

人口7万人を抱えるグラントハイツだったが、ケーシー線の運行本数は多くなかった。しかし、運転本数に比して、グラントハイツ駅の規模は大きかった。引込線は4本あり、旅客ホームのほかに貨物列車用のホームがあった。そこには石炭を積み置く施設も併設されていた。グラントハイツが日本に全面返還されたのは1973年で、そこから公園や住宅団地の着工までには、さらに4年の歳月を要した。

グラントハイツに関しては現存する資料が少なく、いまだに研究者や学者によって全容解明が進められている。また、グラントハイツに転換される前、同地は大日本帝国陸軍の成増飛行場だった。そうした来歴が、光が丘駅に都市伝説をもたらす遠因でもある。

都市伝説には、真実と虚構が微妙に入り混じる。それだけに、どこまでが事実で、どこから尾ひれがついたうわさ話なのかを判別することが意外にも難しい。鉄道界では長らく事実として語られてきた忌避説が、後年になって都市伝説だったことが判明してもいる。こうした鉄道忌避伝説とは逆に、虚構と思われていた話が事実というパターンも存在するだろう。

鉄道にまつわる都市伝説、信じるか信じないかはあなた次第だ。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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