男の歌には、朝帰りの様子が描写されている。男女が夜を共にしたことを基本的に秘密にしないといけないので、男は明け方にこっそり帰る。帰り道に袖が朝露に濡れ、どれが露か、どれが別れを惜しむ涙かわからないというびしょ濡れ状態。しかし、それは愛の歌の定番中の定番。昔男ならもう少しオリジナリティに富んだ落とし文句を使ってほしかったところだ。
再びここはフィレンツェのミサ
ダンテの『新生』を特徴づける現実逃避と純白な気持ち、平安のレディスのドロドロとしたさまざまな情事……陰と陽の狭間を行き来していると、ふと、こんな場面が浮かんできた。
舞台は再びフィレンツエのミサ。女友達に囲まれたベアトリーチェがゆっくりと歩き、ダンテの横を通り、一瞬だけ足を止める。小さく折ってある薄赤の紙をさりげなくダンテのローブのポケットに忍ばせて何事もなかったかのように友達と笑いながら去っていく。驚きを隠せるのがやっとのダンテ青年がスキップしながら家に駆け込み、宝物を触るかのようにゆっくりとその紙切れをとく。
ダンテは自分の目を疑いながら、その小さな紙にキレイな字で書かれている言葉を何度も読み返す……。
なんて、そういうやり取りが実際にあったら、彼が恋焦がれて『神曲』を書く暇はなかったのかもしれない。人生は言ったもんがちだ。何があるかわからないが、とりあえず言わなきゃ損だ。
ベアトリーチェの物語は残念ながら失われたが、和泉式部たちの物語の中に潜んでいる恋人たちの息遣いは今もなお聞こえてくる。使い古した教科書にしか存在しない死んだ言葉だと思われがちだが、その古びた単語は詠まれたときと同じ、いや、それ以上の輝きを放ちながら生き続けている。その会話に耳を傾けることができるなんてこれ以上のぜいたくはないだろうな、と日本から遠く離れた国の鈍行列車に揺られながら思うのであった。
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