昭和の東京を縦横無尽に走った「都電」の記憶 かつて日本橋も新宿駅前も電車が走っていた

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永代通りを走る都電28系統(筆者撮影)

上京して都電を利用し、まず不思議に思ったのは都電の1372mmというゲージ(レールの幅)だった。当時、筆者の知識の中では国鉄在来線をはじめ主な私鉄は1067mmの「狭軌」、新幹線や一部の私鉄は1435mmの「標準軌」、そして当時まだ地方にいくつも存在した軽便鉄道は762mmだったから、都電のゲージは初めて見る規格だった。

このゲージの由来を知るには、東京の市内電車の草創期までさかのぼることになる。都電の前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1900年代初頭には電化され、のちに東京市(当時)の運営する東京市電となった。馬車鉄道は1372mmゲージを多用していたため、市電もこのゲージを踏襲した。郊外から都心へ向かう民鉄も市電への乗り入れを考えて同じ1372mmゲージを採用した例があり、現在も使用しているのが京王電鉄だ。

東京「市電」から都電へ

地下鉄が1路線だった戦前、東京市電は主要交通機関として都心の移動を一手に担っていた。「騒音地獄一巡り」と題した1935(昭和10)年の朝日新聞の記事には「騒音の王者」は新宿とあり、特に市電は「“わめく鬼”」と酷評。市電に比べるとバスなど大した問題にならぬ……とあるが、輸送力強化のため大型車両を投入したことが騒音の主因になっていたのであろうし、反面それだけ市電が活性化しつつある時代でもあったようだ。

この当時の代表的な大型車が、冒頭の映画『東京五人男』にも登場した5000形だ。1930(昭和5)年に12両が製造された東京市電初の半鋼製3扉ボギー車で新宿車庫に配備され、最大幅が2440mmと大型のため大通りを走る11、12系統で活躍。1943(昭和18)年に戦時下の輸送増強のため12両が増備された。映画に登場する5014号はその増備車である。

1943年に東京都制が施行されて、それまでの東京市と東京府は「東京都」となり、市電も「都電」となった。戦中の東京大空襲などで壊滅状態になった都電だったが運行は維持され、その後も超満員の乗客を乗せて東京の戦後復興を支えた。

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