よく、欧米は個人主義、日本は集団主義と言われるが、実は、日本人は集団という物理的な枠に一緒に押し込められる中で、1人ひとりが自発的につながろうという努力をあまりしてこなかった。
だからこそ、人々の結びつきや信頼、近所付き合いやコミュニティなどの強さを示す指標、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)は149カ国中101位(イギリスのレガタム研究所の2017年版のランキング)という世界最低レベルの水準だ。つまり、家庭などに代わる、セーフティネットが絶望的に貧弱な国ということになる。だから、同じ「檻」の中に閉じ込められていながら、その中の人々のつながりは希薄だ。
欧米では、1人ひとりが「個」として独立しているからこそ、人と人とのつながりや信頼こそがなによりも価値がある社会基盤であることを認識している。そうした絆の弱体化である「孤独」は社会、そして個人の危機なのだ。
本当の「孤独」の骨をそぐような痛みは当人にしかわからない。筆者の元には、読者の方々からメールが届く。介護をしていた母を亡くし、「天涯孤独だ」と訴える男性。妻を亡くし、途方に暮れる高齢の男性。毎日毎日、誰とも話すこともなく、テレビだけが相手という日々。孤独を気軽に推奨する人々はそんな残酷さを、身をもって知っているだろうか。
孤独は1人で飼いならすべきと考える日本
海外では、「孤独」は「社会全体の大問題」であるという認識から、孤独に苦しむ1人ひとりに丁寧に寄り添おうと、国を挙げて、その解決策を探る動きが活発化している。孤独担当大臣を設けたイギリスのほか、アメリカ、オーストラリア、インド、韓国に至るまで、続々と調査や対策に乗り出し、連日、報道も相次いでいる。その一方で、「個人の問題」「自己責任」と考え、「1人ひとりのやせ我慢」によって飼いならすべき、と考える日本。
いじめなどを受ける子に対し、「人と違っていてもいい、強くあれ。孤独でもいいんだ」という言葉をかけるのも1つの手かもしれないが、孤独を美化したところで、根本的な解決策にはならないだろう。本当の解決策は、彼らが安心できる居場所を見つけること、支え合い、寄り添う仲間を見つけること、いじめの起こらないシステムを模索することではないか。実際、日本の子どもたちは「世界一、孤独」というデータもある。もはや、1人ひとりに「メンタルを強く持て」と放置プレーで済ませられる次元の問題ではない。
つまり、ひと時の孤独をやり過ごす心の耐性は必要だが、それはあくまでも対症療法でしかなく、常態化する孤独の処方箋にはならないということだ。そうやって、無理やり納得させて抑え込んだ「孤独」は社会に対する不安と不満、怒り、絶望という形で爆発する可能性も秘めている。
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