21. 通学服の洋装化に伴い、都市部の男児を中心に学習院型の革製ランドセルの使用が広まっていく
22. しかしこれはごく少数の恵まれた子息子女で、地方では学用品を「風呂敷」に包み通学する姿が一般的だった
23. 1894~95年に起きた日清戦争で軍用として考案されたのが「雑嚢(ざつのう)」と呼ばれる肩掛け鞄だ
24. 雑ものを入れて斜め掛けにする布製鞄で、1905年に日露戦争が終結するとその高揚気分から学生間に流行
25. この頃から国内でも学生鞄の製作が広まるが、多くは雑嚢をもとにした帆布や麻製の肩掛けタイプだった
26. 当時のデザインはかぶせ部分のコーナーに丸みがあるのが特長で、雑嚢の流行は大正時代に入っても続いた
27. そのうち女児向けの雑嚢や四角いフォルムの雑嚢などデザインに変化が現れる
28. 昭和に入り、中学校の通学用鞄として主に用いられた「白鞄」「ズック鞄」はこの雑嚢をベースにしている
一本手の「手提げ鞄」が主流に
29. そして昭和になって登場したのが、学生向けに革製で作られた「手提げ鞄(学生鞄)」である
30. そのベースとなったのは書類入れとしてビジネス用に考案された「抱鞄(かかえかばん)」
31. もとは抱えて持つことからこの名がついたが、大正時代末期からこれに「手」をつけた「手提げ式」が登場
32. 手提げ鞄には「一本手」と「二本手」があり、一本手の代表ともいえるのが学生向け手提げ鞄だった
33. 1930年代半ばに東京の大手デパートが女子学生向けに学生用手提げ鞄を販売。男子学生や会社員にも浸透していく
34. しかし1941年に太平洋戦争に突入すると国内は戦時統制経済となり学生鞄にもその統制が及ぶことになる
35. 学生鞄という品目に対し、国によって規格が決められ、寸法、工作条件など細かい項目が付されて採点・審査
36. その得点をもとに1~10級までランク付けされ、各等級に応じた価格が指定された
37. 1944年にはさらに統制が厳しくなり、生産・販売においても割り当てを受けなければならなくなった
38. 自由に原材料を仕入れることができず多くの学生鞄製造者が苦労するなか統制は戦後の1949年まで続いた
39. 1950年代半ばになると原材料も入手しやすくなったことで、天然皮革の抱鞄が多く製造されるようになる
40. 一本手の手提げ鞄が学生鞄として主流になり、戦後の急速な経済発展とともに一気に全国に広まっていった
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