(第17回)阿久悠が綴る昭和への「遺言」
●『昭和最後の秋のこと』はドン・キホーテ的挑戦
その記憶の取り戻しは、阿久悠の才能をもってしても、思いのほか困難な作業だった。彼の昭和への熱い"想い"は、歌謡曲の生命にもかかわる昭和の根っ子に当たる部分が、文字どおり根こそぎにされたからには、"後の祭り"になるしかなかったのである。もしも彼が、郷愁としての「昭和」を、ただ歌にしたいとだけ考えていたなら、事はもっと簡単だっただろう。記憶のおもちゃ箱から、ノスタルジアの結晶のような言葉を選りすぐって、歌詞にちりばめておけばよかっただろうから。そうした郷愁の対象は、二度と戻れない「過去」と、様変わりした「現在」のギャップを認めることで、時に容易にイメージ化できる。
だが、阿久悠がやろうとしたのは、そうした歴史的な断絶の承認ではなく、逆にそれへのある種ドン・キホーテ的な挑戦だったのだ。事は幼年期に「戦争」や「飢え」を体験した彼にとっての、どうでもいいわけではない「過去」にかかわっていた。
「昭和一ケタと二ケタと、戦後とオリンピック後ではまるで違う。朝に感じる昭和、真昼に感じる昭和、黄昏に感じる昭和、夜闇に感じる昭和、さまざまである。同じ昭和人になることはない。しかし、リレーのようにバトンを渡して行くことによって、違うのだということを理解する。違うことを認めることが素晴らしい」(同前)
だが、そうだとしても問題は、阿久悠が手渡そうとしているバトンを受け取るのは誰かということだ。たとえば、この精神のリレーに相応しい歌手は誰なのか。
彼は先の『昭和最後の秋のこと』を、誰が歌うとも決めないで書いたと語っている。結果的に、森進一と桂銀淑の競作になっただけなのだと。
この戦略はしかし、あまりにも無防備に過ぎたのではなかったか。
阿久悠はやはりこの歌によって、確実に彼のバトンを受け取ってくれる歌手を指名すべきだったのだ。それは森進一や桂銀淑のような、「いかにも」の線であってはならなかった。「昭和」らしからぬキャラクターに、あえてバトンを託するという方法があり得たのではないか。
「すっかりお金持ちの子ども風に生まれて育ってしまった世代に、貧しさを体験しろと責めても始まらない。しかし、貧しいということが存在することや、貧しい時代の中に活力や歓喜があったことを伝えることは出来る。その世代を愚弄しないで感心する子どもを育てるぐらい、何でもない。(中略)それが伝達である。伝達によるアイデンティティの構築である。それが昭和最後の秋までは、細々ながらもあった気がする」(同前)
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