日の丸ジェットエンジン繁盛記~大盛況でも深まる矛盾
30年前のちょうど今頃。国際経済交流財団の畠山襄会長は、通産省(現経産省)航空機武器課長に就任して3カ月も経っていなかった。
そこにIHIの永野治相談役が乗り込んで来た。戦中、日本初のジェットエンジン「ネ‐20」を開発した人物である。
「英国ロールスロイスと民間機用ジェットエンジンを共同開発したい。ついてはぜひ、予算をお願いしたい」。航空機関連の概算要求はもう8月に提出済みだ。「今頃やってこられても」。畠山課長が鼻白むと、割れるような怒声が降ってきた。「一課長がこんな大事なことを一存で決めていいと思っているのか」。
そのとき、日本は準民間用としては「30分回ればいい」と皮肉られた「FJR」(垂直離着陸機に搭載)の開発経験しかない。素人同然が世界の金看板と五分と五分で新エンジンを開発しようというのである。
日本にとっては「死に物狂いの飛躍」だった。30年後、「死に物狂い」は望外の果実をもたらした。
RJ500からV2500へ 仕事は24時間体制
ロールスと日本が共同開発した「RJ500」から発展した「V2500」。エアバスのA320(130席)に採用され、現在までの累計受注は6000台。ジェットエンジンの損益分岐点は、悪くて2000台とされる。V2500は抜群に“儲かる”エンジンとなった。
参加した日本側3社(IHI、川崎重工業、三菱重工業)のうち、長男格のIHIの航空宇宙部門営業利益は236億円(昨年度)。その「大半」をV2500が稼ぎ出している。が、ここまでの道のりが長かった。
1980年に開発着手したものの、当初、採用機体がなかなか決まらず、先行するライバル機種「CFM56」(米GEと仏スネクマが共同開発)との水は開くばかり。頼みのロールスはポンド高とインフレで大赤字だ。そうこうしているうちに、米プラット&ホイットニー(P&W)が独MTUを誘って新たに参入してきた。下手をすれば、ロールス組とP&W組は共倒れになりかねない。
84年、ロールス組とP&W組は“合体”を決断。RJ500はV2500に名前が変わり、日本側のシェアは50%から23%に低下した。
が、合体しても、ロールスもP&Wも「自分こそ」のプライドがある。二つのモデルが並走したまま交わらない。「これではいけない、となったのが、型式証明を取る1年前。相互に知恵を出し、仕様を見直し、やっと一本化した。ギリギリの綱渡りだった」(IHI航空宇宙事業本部・満岡次郎副本部長)。
英ロールスの技術者が一日の仕事を終えると、米国の朝が明ける。P&Wの技術者が設計を引き継ぎ、夜になると、今度は日本の朝にバトンタッチ。仕事は24時間回る。電子メールなどない時代、日米英間を山のようなファクスが飛び交った。
型式証明を取った後が、また大変だった。通常、エンジン本体は原価割れで販売する。販売台数が累積したところで、オーバーホールの補修部品で投資を回収するのが、ジェットエンジンのビジネスモデルだ。
ただでさえ立ち上がりはシンドイのに、90年代前半は湾岸戦争が勃発、V2500を搭載したA320自体、売れ行きがパッとしなかった。しかも、「リスクシェアリング・パートナー」(RSP)であるため、日本各社はディスカウントの赤字や販促費もシェアしなければならない。V2500が単年度黒字化したのは、やっと2000年だった。
川崎重工のガスタービンセンター長、金森渉執行役員が言う。「十数年待つ体力がないと、やれない。こんなビジネスモデル、ほかにはない」。
V2500の成功で、今や日本のジェットエンジン業界は引っ張りだこ。IHIはリージョナル機向け「CF36」やボーイング777向け「GE90」にもRSPで参加し、ここ3年で生産能力を1・5倍にした。