雇用が回復しても賃金が上がらない理由 今後の経済政策で重要なことは何か
経済学的には、賃金は労働の「限界生産性」によって決まる。これは、十分な労働需要が維持されている限り、実質賃金は生産性の上昇とともに上がり続けることを意味する。現在のAIなどが示しているように、労働生産性は一般に、技術革新があれば必ず上がっていくものである。その結果として生じる実質賃金の上昇が、2%のインフレ経済の中で実現されるためには、少なくとも2%以上の名目賃金の上昇が必要なのである。
その意味で、現在の日本経済は、一定の景気回復によって雇用は改善したにもかかわらず、未だ十分な名目賃金上昇が実現されていないという状況にある。本稿では、その理由は何かを、日本のこれまでの賃金動向も含めて考察し、そこから導き出されるマクロ政策的な含意を論じる。
不況の初期段階における賃金動向
名目賃金と物価は通常、景気が良い時には上昇し、悪い時には下落すると想定される。これは、フィリップス・カーブとして知られている経験的なデータから裏付けられる。フィリップス・カーブには、失業率とインフレ率との相関関係を示した「物価版」のそれと、失業率と賃金上昇率との相関関係を示した「賃金版」のそれとがある。この両者はともに、おおむね「右下がり」の曲線になることが知られている。これは、景気が良い時にはGDPギャップが縮小することで失業率が低下すると同時に物価と賃金の上昇率が上がり、景気が悪い時にはその逆になるためである。
ただし、こうした単純な関係は、あくまでも景気あるいは失業率と「名目賃金」との間にのみ成立するものである。景気循環の過程における「実質賃金」の動きは、通常はより複雑である。
図1は、1990年を100 とした日本の名目賃金指数、消費者物価指数、実質賃金指数(=名目賃金指数/消費者物価指数)である。1990年代の日本経済では、バブルの崩壊による景気悪化によって、失業率の一貫した上昇が生じた。にもかかわらず、日本の実質賃金は、1997年頃まで高い率で上昇し続けた。それは、不況によってインフレ率が低下する中でも、名目賃金の上昇率がそれほど低下しなかったからである。
通常の賃金版フィリップス・カーブによれば、景気が悪化して失業率が上昇すれば、名目賃金の上昇率は低下する。実際、図1の名目賃金指数の「傾き」から判断できるように、1990年から91年には3〜4%あった名目賃金の上昇率が、1993年以降は1〜2%にまで低下している。しかしながら、名目賃金の額面それ自体は、依然として上昇し続けている。それは、労働市場には「名目賃金の下方硬直性」が存在するためである。
一般に、インフレが定常化されているような経済においては、名目賃金の上昇もまた制度的に慣例化される傾向がある。というのは、そうでないと実質賃金の適正な上昇が実現できないからである。