原発、爆発。そのとき、老人ホームは? 自分の家族と要介護者――。守るべき命の狭間で

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福島第一原発から33km。南相馬市鹿島区の特別養護老人ホーム「万葉園」から横浜市の老健施設への避難を経験した介護主任、阿部雅志さん(当時33歳)に話を聞いた。

現場職員の葛藤

「俺、多分、ギリギリまで帰らないから」

妻にそう連絡し、子ども2人を親戚とともに実家の秋田県に避難させて、万葉園に留まりました。

12日の福島第一原発の水素爆発を知ったときは、やべえなと思いましたよ。死を覚悟しました。すぐに頭に浮かんだのは「はだしのゲン」の1コマ。被ばくして赤く溶けた皮膚を引きずりながら、路頭をさまよう人たちでした。

私がいた万葉園には、50人の利用者がいましたが、同じ法人で避難区域内にある別の特別養護老人ホームから利用者、職員約60人が避難してきました。ただ、水素爆発以降は職員数がどんどん減っていきました。

現在は再開した南相馬市内の同法人介護施設で働く阿部さん(南相馬市原町区にて、2013年8月27日撮影)

言い出せなかったんだと思いますが、直接避難することを告げる職員はあまりいませんでした。数日後にメールや人づてで、避難したことを知りました。

いつも一緒に仕事をしていた仲間が急にいなくなることに、はじめは心の整理がつきませんでしたが、あのときは「しょうがない」と自分に言い聞かせるしかなかったんです。

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