公文書で読み解く「首都大改造計画」の全貌 首都高や新幹線はこう形作られていった
当時日本サイドは、オリンピックのためワシントンハイツ(現・代々木公園など)とキャンプ・ドレイクの返還を米側に求めていた。ワシントンハイツより朝霞のほうが接収解除の見通しが明るいとして朝霞を予定していたが、昭和36(1961)年になって米側がワシントンハイツの全面返還に応じるという、それまでの予測を超えた回答を出してきた。それによって都心近くにあるワシントンハイツが選手村となった(昭和36年12月6日日米合同委員会合意)。
このあたりの経緯は、「ワシントンハイツ住宅地区およびリンカンセンター住宅地区の全域ならびにキャンプ朝霞の一部返還について」(昭和37年1月6日)などの公文書に詳しい。移転期限は昭和38(1963)年11月とされたが、一部はその前年に返還を希望するなど、交渉の経緯も興味深い。
環状7号線は、選手村が代々木へと変わっても建設計画は変更されなかった。オリンピックを成功させようという合言葉のもと、困難な用地買収を進展させ、機に乗じて完成させてしまったという感もある。
五輪開催決定の1カ月前、東海道新幹線が着工
東海道新幹線の例も見てみよう。それまで東京―大阪間は、東海道本線の特急「こだま」で6時間30分かかっていたのを、新幹線「ひかり」が東京―新大阪間を半分の3時間10分(開業から1年間は4時間)で結んでしまった。欧米の鉄道並みに線路の幅が広い標準軌のレールの上を、これまでに見たことがないような流線形の車両が時速210キロで駆け抜ける。明るい未来を信じられるような電車に対し、人々は「夢の超特急」と呼んだ。
開業の約10年前、昭和30年前後から始まった高度経済成長は、日本を重化学工業国へと転換させるものだった。京浜、東海、中京、阪神、瀬戸内、北九州という工業地帯が発達し、太平洋メガロポリスが形成された。それにより東海道本線の旅客、貨物とも増加を続け、近い将来の輸送力がパンクするのが明らかになってきた。
昭和32(1957)年11月、「日本国有鉄道幹線調査会答申第1号」で、「(東海道線の輸送需要は少なく見積もっても)昭和50年度においては、現在に対比し旅客においては約2倍、貨物においては約2.3倍以上に達し、爾後更に増加するものと推定」され、東海道本線は、「昭和36、37年頃においてほぼ全線にわたって輸送力の行き詰まりを来す」と報告された。
答申の文書を読むと、「喫緊」という言葉を使って早急の着手を促しているのが、ことの深刻さを感じさせる。これにより東海道新幹線は、同34(1959)年4月に着工される。東京オリンピック開催決定のちょうど1カ月前だった。
昭和30年代前半に行われたさまざまな将来予測数字は、その後約15年にわたる高度経済成長の間、推測値よりその後の実績値のほうが上回る例が多い。計画を前倒しにしていくことは、少なくとも低成長期に入るまでは正解だったのである。
戦後のこの時期、東京オリンピックは、都市計画を生み出すというより、計画に拍車をかけ、絶対に成功させるという国民への旗印のようなものだったことが、いくつかの公文書を読むことで分かってくる。
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