公文書で読み解く「首都大改造計画」の全貌 首都高や新幹線はこう形作られていった

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オリンピック開催決定で、ただでさえタイトだったスケジュールが、ほぼ1年前倒しになってしまった。オリンピック決定前には、昭和33(1958)年度を初年度とする「第2次道路整備5箇年計画」が実施されていて、首都高速道路への事業費は589億円だったのに対し、決定後は、5年の経過を待たずに同36(1961)年度を初年度とする「第3次道路整備5箇年計画」が急遽作成された。首都高速道路の予算は1189億円へと倍増されている。同計画の大蔵省文書では、「現行道路整備5箇年計画は、揮発油及び軽油に対する課税を引き上げる前提のもとに昭和36年度を初年度とする新計画に改め強力にこれを推進する」とある。オリンピックのために有無を言わさず計画を変更するという内容で、時代の空気を感じさせる文言である。

東京オリンピックでは、それまでも都市計画道路として指定されながら遅遅として進行していなかった放射4号線(青山通り、玉川通り)、放射7号線(目白通り)、環状7号線(西側半分)などをオリンピック関係道路として、改修・建設することとなった。上記のことはよく知られているが、考えてみると、なぜ環状7号線がオリンピックに必要だったのか疑問に思えないだろうか。

ワシントンハイツ(現代々木公園)が選手村に

「オリンピック選手村事業計画書代々木選手村について」オリンピック東京大会組織委員会(平15文科00109100/昭和37年1月)。現在は代々木公園となっているワシントンハイツ配置図。米軍関連住宅施設 約300棟のほか、学校、劇場、スーパーマーケット、クラブ、教会、工場などがあった。 そこの施設を利用(一部改修)して選手村とした(写真:国立公文書館提供)

環状7号線の近くには駒沢公園や馬事公苑といったオリンピック競技会場があり、北側には朝霞射撃場や戸田漕艇場もある。一見、これらを結ぶために環状7号線は必要そうだが、実際選手たちは、それらの会場へ代々木の選手村から向かう。玉川通りや目白通りは使うが環状7号線は通る必要がない。ほとんどの観客も環状7号線は使わないだろう。こう考えるとオリンピックと環状7号線は、直接の関係がない。

この謎は、当初選手村が埼玉県朝霞の米軍基地、キャンプ・ドレイク(サウス)に予定されていた(昭和35年12月、組織委員会決議)ことが分かれば解ける。朝霞に選手村が設置された場合、環状7号線は、選手村と羽田空港、駒沢公園などを結ぶ超重要道路となる。朝霞は主会場から約20キロ離れていて遠いのだが、道路が整備され適切な交通整理が行われれば自動車で約40分で行けるということで、問題なしとされた。都の関係者も、長年懸案の環状7号線の建設が進むので朝霞選手村を支持し、それを前提としての道路整備計画が進んだ。

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