公文書で読み解く「首都大改造計画」の全貌 首都高や新幹線はこう形作られていった

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行政の対応を振り返ると、敗戦から4カ月後の昭和20(1945)年12月に「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定された。これに基づく東京の復興事業には、戦前から内務省の都市計画担当として都心の高速自動車道路網構想を発表していた石川栄燿が、東京都の都市計画課長として参画している。同基本方針には、東京の幹線道路では幅員50メートル、必要に応じて幅員100メートルの道路を建設すると掲げられていた。だが財源不足から幅員100メートルの道路プランは実現しなかった。

昭和25(1950)年6月には「首都建設法」が施行される。同法の目的を一言で言えば、東京は首都なのだから他の都市より財源的に優先させようというもので、同28(1953)年4月には、「首都高速道路の新設についての勧告」が首都建設委員会により東京都と建設省に行われている。このときの首都高速計画は、都心部での1つの環状線と5つの放射線による49キロメートルのものだった。同法のもと、「首都建設緊急5箇年計画」などが策定されたが、最終年度の進捗率が40%にとどまり、成果を上げずに終わる。

昭和31(1956)年6月には「首都圏整備法」が施行される。これは東京一極集中だった首都建設法の失敗から、東京の過大都市化を制限し、一都三県(神奈川、埼玉、千葉)の周辺都市も含めた開発を特徴とするものだった。同33(1958)年7月、首都圏整備委員会は、1つの環状道路と8つの放射路線計71キロメートルの都市高速道路路線建設を告示した。首都高速道路公団も同年6月17日に設立されている。

オリンピック決定で、計画がさらに1年前倒し

「東京都市計画街路事業(都市高速道路)及びその執行年度割決定について」建設省(昭53建設87000020/昭和34年11月14日)。東京オリンピック開催決定前の首都高速道路建設に関する文書。合議局の筆頭に河川局の名がある。道路用地は極力河川および運河の地を利用するとされ、道路を運河の上に建設するか、運河の水を抜いて底に建設するかなど、河川局の意向も働いた(写真:国立公文書館提供)

第18回オリンピック大会が東京開催と決定したのはこの後である。昭和
34(1959)年5月26日、IOC総会で東京がウィーン、デトロイト、ブリュッセルを票決で上回り、アジアで初めてのオリンピックが東京で行われることに決定した。

ところで、現在の首都高速道路は、随所にある急カーブに加え、車線変更や合流をごく短い間に行わなければならないため、「自分には首都高は怖くて、一生運転できそうにない」というドライバーの声も多く聞く。こうしたコース設計もオリンピックとは関係なく、「昭和40年交通麻痺問題」までにつくるという工期の問題と予算不足によるもので、当初からの設計だった。

ルート選定にあたっては、用地買収を極力少なくするために「河川又は運河(の上)を使用するものとし、やむを得ざる場合には広幅員(40メートル)の道路上に設置する」としていた。そのため出入路が狭く急カーブが続く箇所が多くなった。由緒ある日本橋の上を覆いかぶさる形で通る悪名高い地点は、当初橋の上ではなく、日本橋川を空堀にしてその底に首都高を通す予定だったが、河川管理者の許可が下りなかったので、現在の形になった。

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