いつかの夏、女性は殺される瞬間まで闘った 凄惨すぎる「名古屋闇サイト殺人事件」

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最初は取材を拒否しておられた富美子さんである。母一人子一人で育て上げた利恵さんのことを思い出しながら大崎に詳しく話す気持ちはどんなだったろう。しかし、正直なところ、読みながら、どうして生い立ちがこれほど詳しく描かれているのかがよくわからなかった。いってみれば、どこにでもあるような話なのである。しかし、そこで紹介される小さなエピソードの数々が、本の後半、事件における利恵さんの行動や裁判の経過が語られる段において重要な意味を持ってくる。

まったく無計画に行われた犯行は、非情にして凄惨だ。車の中で頸を締められ、それでも息の根が止まらないので、コンクリートを割るような大型のハンマーで20発も30発も頭部を殴られている。恐ろしいことに、それだけの間、死ねなかったということだ。そして、最後はゴミでも捨てるように遺棄された。あまりにむごい。

生きるために精一杯闘った

しかし、利恵さんは、絶望的な状態の中にありながら、猥褻な行為をおこなおうとする犯人をはねつけた。いつか母親に家を買うためであろう、800万円の預金があった。そのキャッシュカードの番号を、殺すと脅しをかけて執拗に聞き出そうとする犯人たち。必死に抵抗するが、最後には「2960」と伝えてしまう。裁判でも証言されたその暗証番号の意味を知った時、泣かずにいられる読者などいないはずだ。

強姦を未遂で終わらせただけでなく、最終的にはかなわなかったとはいえ、生きるために精一杯闘った。新聞報道などで、その勇気ある反抗を「命乞い」と書かれたことに母の富美子さんは憤る。犯人に対する態度は、命乞いなどではなく、まごうことなき闘いであった。

我が子が殺められたことを知らされた時の富美子さんの状況も詳しく書かれている。しかし、その気持ちは想像すらつかない。追い打ちをかけるように、被害者遺族の考えを理解しない無神経な報道が過熱する。そこで、富美子さんはマスコミに手書きの文章をつきつける。

何の落ち度も、関係もない娘に対し、あれほどの異常な行為を行った人間の存在を、私は認めることはできません。
絶対に、絶対に、許しません。

 

『いつかの夏』(上の書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)

この言葉を裏付けるように、死刑嘆願の署名活動を開始する。そして、33万人以上の署名が集まった。証拠としては採用されなかったが、裁判官の心証を動かすには十分すぎる数だろう。それが、殺人被害者が一人であるにもかかわらず、長い間踏襲されてきた永山基準が適用されずに、三人の犯人のうち二人に死刑が下されるという一審の判決につながった。

本の後半、裁判の過程や富美子さんの回想を読んでいると、生まれた時から31歳になるまでの利恵さんのことをよく知っていたかのような錯覚に陥ってしまう。そして、前半部分に書かれていたいくつものエピソードがフラッシュバックのように蘇り、それぞれに涙がこぼれてしまう。キャッシュカードの番号がその最たるものである。こうしてレビューを書いている時でさえ、涙ぐんでしまう。

大崎は最後に記す。

書かれたくないであろう人の人生を書いてしまったことに、ひきつるような後悔の念がなくはない。しかしそれでもやはり磯谷利恵さんの人生は書き残しておくべき意義のあるものだという強い思いは変わらない。富美子さんは私よりも数倍強く、同じ思いなのではないかと思う。

 

このいつまでも心に深く残る本を読み終わった今、まったく同じように思う。そして「生まれ変わるとしたら、空とかになりたい」と語っていた利恵さんも、天国で同じ思いを抱いておられることと願いたい。合掌。

仲野 徹 大阪大学大学院・生命機能研究科教授

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なかの とおる / Toru Nakano

1957年、大阪市旭区千林生まれ。大阪大学医学部卒業後、内科医から研究の道へ。京都大学医学部講師などを経て、大阪大学大学院・生命機能研究科および医学系研究科教授。HONZレビュアー。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社、2017年)、『からだと病気のしくみ講義』(NHK出版、2019年)、『みんなに話したくなる感染症のはなし』(河出書房新社、2020年)などがある。

 

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