同様に、実業家と宗教的ポピュリストの結び付きもトルコでは珍しくない。新たな企業家の多くはアナトリアの農村出身で、こうした新興富裕層はイスタンブールの古いエリートのことをよく思っていない。
トルコがより民主主義的になったというのは、よりリベラルになったということではない。これもアラブの春で明らかになった問題の一つだ。
私たちがエジプトやトルコで見ているものは、英国のリベラル派哲学者アイザイア・バーリンが諸価値の両立不可能性と言い表したそのものだ。すべてのよいことが同時に起こると信じるのは間違いだ。時に、同等に価値あるものは衝突する。
中東でも同様のことが起こっている。民主主義も、リベラル主義、寛容さと同じように価値がある。それらが一致していれば理想的だが、現在中東のほとんどの地域ではそうなってはいない。より民主的になることは、より不自由かつ不寛容になることを意味しうる。
一方、イスラム主義を寄せ付けないことは、独裁者を支持する理由にならない。実際、政治的イスラムの暴力の多くはこうした抑圧的政権の産物で、彼らが権力の座に長く就いていればいるほど、イスラム主義者の反逆はより暴力的になるだろう。
トルコでエルドアン首相と、モール建設業者を支持する理由もまた存在しない。デモに参加している人々が、首相が世論を無視したり、マスコミを抑圧したりしているのに抗議するのは正しいことだ。が、紛争を宗教的な表現に対する正義の戦いと見るのは間違いだろう。
イスラムがより可視的になるのは、ムスリムが多数派を占める国々ではより民主主義的になることの結果である。これによりリベラル主義が抑圧されることが、中東が直面している最も重要な問題であろう。トルコはいまだ民主主義の国である。エルドアン首相に対する抗議が、その民主主義をよりリベラルにするということもまた望まれるのだ。
(撮影:Getty Images =週刊東洋経済2013年6月29日)
(C)Project Syndicate
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