南相馬市小高区に見る、原発被災者の窮状 住む家を奪われ、生活再建もままならず
福島第一原子力発電所から20キロメートル圏内にある南相馬市小高区では、原発事故直後から昨年4月15日までの1年近くにわたって、住民の立ち入りが厳しく制限されてきた。翌16日に警戒区域の指定が解除され、日中に限っての住民の出入りが認められるようになったものの、肝心の復興はこの1年ほとんど進まなかった。
「仮置き場が決まらないので、いまだに放射性物質の除染作業も始まらない。ゴミの収集にも来ないので家の中の片づけすらできない。立ち入りができるようになっても、何もいいことはないね」
着の身着のままで避難
避難先の福島県会津若松市から南相馬市小高区岡田の自宅に立ち寄った國分富夫さん(68)が、険しい表情で語る。
第一原発から約15キロメートルにある自宅を國分さんが後にしたのは、大地震が起きた翌日の2011年3月12日夜。1号機の水素爆発をテレビニュースで知った國分さんは「逃げるしかない」ととっさに判断。妻と長男夫婦、生後わずか1カ月半の孫とともに、原発から60キロメートル離れた福島市へと自家用車で向かった。だが、避難所はすでに満杯で眠るスペースを確保することもできず、寒さに震えながら車中で三日三晩を過ごした。
15日にはまだ雪深かった南会津町の遠い親戚の家に転がり込んだ。その後、運良く会津若松市内で一軒家を借りることができたものの、原発事故以前のような平穏な生活を取り戻す見通しは立っていない。
市役所の判定で、國分さんの自宅は「地震の被害なし」とされたが、2年にわたって留守にしたことで、家の中はカビだらけになり、ネズミが荒らし回った。冷蔵庫の中は震災当日のままで腐敗がひどく、床下の柱にはシロアリが巣を作っているという。
「家の周りだけ除染しても、田畑や森、通学路が汚れたままでは、子どもたちが遊べる場所もない」という國分さんは、「東京電力にはこの際、家ごと買い取ってもらいたい」と強い口調で続ける。
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