揺れるスズキ、次代リーダーが52歳で急逝 小野浩孝取締役専務役員が膵臓ガンで急逝

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小野氏は、鈴木会長の娘婿。鈴木会長が社長を退いた翌01年、「企業経営を早いうちに学んでほしい」と鈴木会長に請われ、通産省(現経済産業省)の課長からスズキに転身した。そして欧米事業担当の取締役に就任するや、すぐに結果を出した。

04年度後半に日欧中インドで生産を開始し、その世界的大ヒットでスズキを世界一流レベルの小型車メーカーへと飛躍させた新型「スイフト」。この開発の中心となったのが、ほかならぬ先の望月氏(当時開発責任者)と小野氏の2人なのだ。

小野氏は社内に埋もれていた欧州調のデザイン案を持ち出して積極的に採用を働きかけ、車両開発でも走行性能重視の欧州スタイルの路線を定着させた。その過程で社内のデザイナーや技術トップの津田社長と、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしたという。

20年近く自動車業界を見てきた証券アナリストはこう語る。「鈴木会長は、言うなれば『ケチケチ経営』のリーダーシップ。新車開発でも、安価な軽自動車の部品で一般の小型車を開発する。これに対し、小野氏はまず本場欧州で通用するスイフトを一から開発し、それによって海外事業で攻めの投資に舵を切った」。

国内軽自動車で「アルト」などを育て、80年代初頭にいち早くインドに進出したのは、もちろん鈴木会長の功績。対して、近年のスイフトや新型「SX4」などのヒットで世界的な小型車メーカー=新生スズキへ躍進させたのは、実は小野氏のリーダーシップが大きいというわけだ。

こうした事情を知る津田社長は、弔辞で「あなた(小野氏)のビジョンどおり、スズキは成長を続ける。見守ってほしい」とまで述べている。

小野氏は「交渉屋」としても鈴木会長に見込まれていた。06年3月、経営不振の米GM(ゼネラル・モーターズ)が保有するスズキ株20%の大半を売却し、それをスズキが買い取ったとき、GMとの交渉で先頭に立ったのは小野氏だ。「やはり通産省にいたから、対GMで示した交渉能力は大したもの。いろいろなポストを経験して得た水平的な思考も、うちの社員ではマネできない」と当時、鈴木会長は語っている。

このGMとの提携縮小会見以降、小野氏は鈴木会長の隣に座り、公の場に出ることが増えた。「元官僚がスズキの企業文化になじめるのか」という外野の声は、その人柄に触れることで消えつつあった。小野氏が病に倒れたのは、そうした矢先の1年前のこと。その後いったんは社業に復帰したが、夏以降、再び容体が悪化したという。

葬儀に参加したある現役技術幹部は「小野氏は社内ではすでにスズキの新しい顔だった」と惜しむ。別の社員は「亡くなる数週間前に病床から電話で業務の指示を受けた。復帰への執念を感じた」と語った。

小野氏の急逝で、鈴木会長の続投は必至。悲しみを乗り越え、新たなリーダー探しを急ぐ必要がある。

(『週刊東洋経済』12月29日-1月5日合併号より)

野村 明弘 東洋経済 解説部コラムニスト

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のむら あきひろ / Akihiro Nomura

編集局解説部長。日本経済や財政・年金・社会保障、金融政策を中心に担当。業界担当記者としては、通信・ITや自動車、金融などの担当を歴任。経済学や道徳哲学の勉強が好きで、イギリスのケンブリッジ経済学派を中心に古典を読みあさってきた。『週刊東洋経済』編集部時代には「行動経済学」「不確実性の経済学」「ピケティ完全理解」などの特集を執筆した。

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