●坊主頭に黄色いユニフォーム
高校一年のときは、これから強くしようという学校だったので、練習が全然厳しくなかった。レースに出た時に、ライバルの大牟田高校はみな坊主頭だったのです。うちの学校はみな最初は長髪だったのですが、どうも、坊主頭が強く見えるということで、みんなで話し合い、自主的に坊主頭にしました。先生も、しめしめと。お前らから言ってくれるのを待っていたと、そんなこともありましたね。また、当時、大牟田高校は赤いユニフォーム、もうひとつの宿敵、福岡大附属大壕高校は、白と黒のユニフォームでしたが、それに対抗しようとしている新しい学校ですから、ユニフォームの色まで、とにかくあの派手なところに負けたくないということで、黄色になっちゃったんですね。スクールカラーでも何でもないのに、あの色に対抗するには黄色しかないって本当にユニフォームを黄色にしてしまいましたね。
●中学生の誓い。喫茶店での契り。
陸上を始めてから、中学、高校時代は、時間も体力もないので、ダラダラ勉強をしたことはありません。授業は寝ないでちゃんと聞く。宿題は休み時間に終わらせる。毎日トレーニングで疲れているので、家に帰るとすぐに寝てしまい、家ではできないから休み時間に終わらせてしまうのです。当時は試験期間も練習が休みではなかった。自分にとっては部活動をやることが中心で、大会を目標にそれ以外のことは優先順位が低かった。だからといって負けず嫌いで、足が速いからといって勉強で負けるのも嫌だった。集中してやらざるをえなかったのです。中学から高校に入ると、北九州市から福岡県に土壌が移ります。
私は県で二番目に速い選手で、一番手が今は大東文化大学で陸上競技部の監督をやっている只隈くん(只隈信也氏)でした。中学は別でしたが同じ北九州の小倉の出で、彼も私も、福岡県で一番と二番の選手ですから、駅伝の強い大牟田高校という学校から勧誘を受けていました。もうひとつ地元でそんなに強くはない八幡大学付属高校(現・九州国際大学付属高校)からも勧誘を受けていました。私たちは八幡高のことを知らず、いつも高校駅伝で活躍する大牟田など強い学校への憧れを持っていました。しかし、八幡の先生から、 「地元の子ども達だけでうちの高校はやっていきたい。向こうの強い学校は県外からいろんな選手を集めてきてやっているからプロなのだ。そういうところで強くなっていくのもいいけど、これは高校のスポーツだから、自分たちで家から通えるところで、勉強もやりながら、プロの学校に立ち向かっていこうじゃないか」と、言われました。この話には親も感動していました。
でも、最終的には、親も先生も、「中学生だし、自分たちで決めなさい」ということで、そのとき、お互いに同じような勧誘を受けていたライバルの只隈くんと二人で小倉の喫茶店で会ったのです。
「お前どうする?」
地元の八幡の先生の言うことはよくわかる。だったら二人で、県で一位と二位の選手が同じ学校に行ったら、ひょっとしたら、あの学校に勝てるかもしれない……ということで、お互いに、「(八幡に)行かないか?」と握手をしましてね(笑)。
喫茶店でジュースか何かを飲みながら進路を決めた、中学生の重要会議でしたね。
●好きなお酒を一杯我慢して……
こうして振り返ると、中学、高校の先生、大学の四年間、今度は実業団に入ってからと、要所要所でいい恩師と出会っていましたね。このときも大人から何を言われたわけではなく自分たちで考えてやっていた。周りの大人達がそうさせてくれたのかもしれません。普通だったら、親も先生も、自分たちは経験しているんだから、自分たちのいうことを聞けといってたかもしれない。でも、このときは誰も一切何も言わなかったんですね。
実はその高校3年間、全然勝てず、全国大会にも行けなかった。でも、全然後悔はしていない。人から言われていたとしたら、ほらみろという恨みを少しでも持ったとしたら、自分の人生のなかで嫌な気持ちを持ったと思うので、常に自分の人生は自分で考えなさいという姿勢を作ってくれた周りの人たちに感謝しています。
先生もですが、父の影響は特に大きいです。今まで一度も「勉強しなさい」と言われたことがないし、スポーツでも陸上でも何かやろうとしているときに、「駄目だ」と言うことはなく、その代わり、「お前がそういう風に思うんだったら、一生懸命やりなさい。中途半端はだめだ」って言われていました。
高校受験の時に、家はそれほど裕福ではなかったの。八幡高校は、私立で特待制度もない学校だったので、普通に授業料を払わなければならない。進学を決め、高校の先生が私の家に来たとき、 「お父さん、すみません。こういう決断をしたので、こちらを受験して入ってもらうことになったけど、特待制度もないので、授業料を払ってもらうことになります」
すると、父はお酒がとても好きなのですが、「わかった。好きなお酒を毎日3杯飲むところを2杯にして(私立に)行かせましょう」。
この言葉に先生は感動しちゃってね(笑)。
金哲彦<きん・てつひこ>
1964年福岡県生まれ。
早稲田大学時代、箱根駅伝で活躍。4年連続で山登りの5区を担当。区間賞を2度獲得し、84年、85年の優勝に貢献。リクルート入社あと、87年に大分毎日マラソンで3位入賞。現役引退後、リクルート陸上競技部監督を経て、現在NPO法人ニッポンランナーズ理事長。マラソン・駅伝中継の解説、後進の指導、マラソンの普及活動に多忙な日々を送る。
著書に『 3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから』(光文社)、『 カラダ革命ランニングーマッスル補強運動と正しい走り方』(講談社)、『 金哲彦のタイプ別ランニング診断-フォームが「変わる!」「速くなる!」』(MCプレス)、『 金哲彦のランニング・メソッド』(高橋書店)など。
1964年福岡県生まれ。
早稲田大学時代、箱根駅伝で活躍。4年連続で山登りの5区を担当。区間賞を2度獲得し、84年、85年の優勝に貢献。リクルート入社あと、87年に大分毎日マラソンで3位入賞。現役引退後、リクルート陸上競技部監督を経て、現在NPO法人ニッポンランナーズ理事長。マラソン・駅伝中継の解説、後進の指導、マラソンの普及活動に多忙な日々を送る。
著書に『 3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから』(光文社)、『 カラダ革命ランニングーマッスル補強運動と正しい走り方』(講談社)、『 金哲彦のタイプ別ランニング診断-フォームが「変わる!」「速くなる!」』(MCプレス)、『 金哲彦のランニング・メソッド』(高橋書店)など。
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