(第2回)美空ひばりから、アイドルの時代へ
●「飢餓」と「憧憬」の高度成長時代
昭和は「歌謡曲の時代」だったと阿久悠は語る。その歌謡の原動力を、彼は「飢餓(きが)」と「憧憬(どうけい)」だったと回顧している。まさに、美空ひばりをスーパースターにした時代的条件である。
ただ、高度経済成長を経験した戦後の日本は、「飢餓」の時代を脱却し、「憧憬」の対象だったものを、あらかた手にすることができるようになった。それが、阿久悠が作詞家として快進撃を開始する1970年代である。 「きれいな服着てるみなし児、おいしいもの食べてるみなし児」−−
それが70年代だったと、いみじくも彼は語っている(『時代の証言者(11)』)。「キャッチアップ」を指標とする、国民的発展が疑われることのなかった、新時代のみなし児たちに、敗戦直後に10代の美空ひばりが歌い演じたみなし児のキャラクターを求めることは不可能だろう。
だが彼は知っていた。飢えから解放された戦後日本社会に、アイドルと呼ばれる新種のみなし児たちが誕生しつつあったことを。
アイドルの時代とともに、日本歌謡史における新たなる昭和、新たなる戦後が始まる。
阿久悠は70年代のアイドルが、新種のみなし児、豊かな時代のみなし児であることに、誰よりも早く気づいた。その市場化可能性に目覚めたと言ってもよい。
では、豊かな時代に相応しい"みなし児の歌"とは、一体どのようなものだったのか。
山口百恵、森昌子とともに"花の中三トリオ"として売り出した桜田淳子は、1973年の『わたしの青い鳥』(作詞・阿久悠、作曲・中村泰士)で、まさに新時代のアイドルの模範解答を鮮やかに示した。
それはきれいな服を着て、おいしいものを食べている、豊かな時代のみなし児の歌と言うにふさわしい、アイドル歌謡の典型だった。桜田淳子はここで、美空ひばりが演じたようなみなし児、ホームレスの少女ではなく、いわば"心の寝ぐら"を求めてさまよい歩く、豊かな時代のみなし児を演じていたのだ。
「飢餓」と「憧憬」の対象が、様変わりしていた。モノを手にしたあとの豊かな時代の空虚感を、最初に察知したのは、大人ではなく子供たちだったのだ。
阿久悠が、この時代に招かれた、アイドルという名のみなし児たちを発見したのは、この時である。「子供が大人より偉い時代」が、また巡ってきたのだった。その主役が少女アイドル歌手である。
どうしてそれが、みなし児的だというのか。
アイドルは誰のものでもなく、すべてのファンのためのものである。まずその帰属の不確かさが、みなし児の条件であり本質なのだ。アイドルとは、その「時代」以外に帰属性をもたない、選ばれたみなし児のことなのである。
では敗戦後のスター美空ひばりと、70年代のアイドルはどこが違うのか。
ただ一点、後者が自然発生的にではなく、ビジネスライクに作られたものであることだ。個々のキャラクターを立ち上げる、テレビ時代ならではのプロジェクトを通じて。
次回は多数のアイドルを生み育てた、ある"お化け番組"と阿久悠のかかわりについて論じてみよう。
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